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出典検索?: "石田秀範"
石田 秀範(いしだ ひでのり、1962年10月14日[1] - )は、日本のテレビドラマ・映画の監督・演出家。富山県出身、血液型はAB型[2]。横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)卒業。既婚者。 専門学校を卒業した後、東映テレビプロダクションの現場に参加し、『宇宙刑事ギャバン』(1982年)の最終三部作(田中秀夫監督組)より東映特撮作品の現場に携わるようになる。それ以降、同作品に端を発したメタルヒーローシリーズや仮面ライダーシリーズなど、ADKが制作に関与した作品に、演出部として多数参加する。このうち、平成仮面ライダーシリーズでは4作品でパイロット演出も手がけている。一方、同シリーズの主要演出陣では珍しく、スーパー戦隊シリーズに監督としての参加経験は無い。 『時空戦士スピルバン』の終盤から『機動刑事ジバン』までは、チーフとセカンドの助監督を担当した。『特警ウインスペクター』(1990年)にてチーフ助監督に昇進し、翌年放送の『特救指令ソルブレイン』第19話「亀ちゃんと探偵娘」にて、28歳で監督デビューを果たす。これは当時の東映特撮作品史上、最年少での監督デビューだった。『ビーファイターカブト』(1996年)第1話・第2話の助監督を務めた後に第5話より正式に監督ローテーション入りし、『仮面ライダークウガ』(2000年)にて初のメイン監督を担当した。『仮面ライダードライブ』(2014年)終了後はテレビシリーズの演出からは離れ、『仮面ライダーアマゾンズ』(2016年)をはじめとするネットムービーやオリジナルビデオ、映画を中心に、引き続き同シリーズ関連の作品の演出に携わった。 2019年6月以降は活動拠点を大分県に移す[3]一方、同年末には『仮面ライダーゼロワン』の演出として仮面ライダーシリーズに5年ぶりの参加を果たした。拠点を移した理由に関しては、当初は映像業界から退くつもりだったと語っており、現在は撮影の依頼が来た際に大分と東京を行き来しているセミリタイヤ状態であると後に自身のインタビューで語っている[4]。 非常にエキセントリックで独創的な演出(極端に画面の色を変える、それまで流れていたBGMやSEを突然消す、シリアスな話の最中に登場人物の頭上へ突如スポットライトを下ろす、など)を用いる。『仮面ライダー龍騎』で登場人物にメイド服や給仕服を着せてダンスを踊らせたり、『仮面ライダー剣』のオープニングをミュージック・ビデオ調に仕上げたりと、音楽を中心に置いたミュージカル風味の演出を用いる。『仮面ライダー555』の「てれびくんハイパーバトルビデオ」や『仮面ライダー響鬼』第1話では、「風味」にとどまらないストレートなミュージカル演出も行っている。
来歴
作風
人物・エピソード
『テツワン探偵ロボタック』『燃えろ!!ロボコン』では、本名の石田秀範名義ではなく「ヒデ・I」名義で活動していた。
『仮面ライダークウガ』が初のメイン監督作品だが、実はこれは予定外の事態で、当初は別の監督がパイロットを撮り、石田は第3話・第4話を撮る予定であった。しかしその監督が降板したため、急遽パイロットを任されることになったという。
『クウガ』のパイロット組の撮影では撮影中に倒れてしまい、チーフ助監督の鈴村展弘が演出を代行した箇所もあるという。
『仮面ライダー鎧武/ガイム』に出演した波岡一喜から「一般のドラマは撮らないのか」と問われた際、仮面ライダーシリーズで若い俳優たちを撮ることへのこだわりを語ったという[5]。