いしだ ひろし
石田 弘
生誕 (1943-09-21) 1943年9月21日(80歳)
東京都杉並区
国籍 日本
民族日本人
出身校日本大学芸術学部
職業テレビプロデューサー
活動期間1967年 - 現在
活動拠点フジテレビジョン
テレビ番組ミュージックフェア、オールナイトフジ、夕やけニャンニャン、とんねるずのみなさんのおかげでした他
配偶者既婚
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石田 弘(いしだ ひろし、1943年9月21日 - )は、日本のテレビプロデューサー。フジテレビジョン人事局付嘱託エグゼクティブプロデューサー、フジパシフィックミュージック取締役。
愛称は「ダーイシ」。東京都出身。 生まれは杉並区高円寺北。生家は阿佐ヶ谷で割烹料亭を営んでおり、小学生時代からいわゆる「鍵っ子」として、阿佐ヶ谷の映画館に入り浸っていた[1]。エルヴィス・プレスリーに憧れ(詳細は後述)、ミュージシャンや映画監督などの道を目指すも自分には難しいと判断し、テレビディレクターを志した[1]。 海城高校卒業後、日本大学芸術学部在学中からフジテレビでアルバイトを始め、1967年に正式に入社。アルバイト時代から引き続きドラマを制作していたが、フジテレビ制作部門の分社化に伴い、ビデオソフト制作部門(後のポニーキャニオン)に異動し、成人向けビデオの制作も行っていた。 その後、分社化した制作会社・フジプロダクション(後にフジ制作)に出向し、音楽・バラエティ番組を担当した。『リブ・ヤング!』では洋楽とフォーク、ロックのみ扱い、この番組がキャロルのデビューのきっかけとなる。1973年より『ミュージックフェア』のディレクター、1980年よりプロデューサーを務める。 1980年代以降、『オールナイトフジ』、『夕やけニャンニャン』、『とんねるずのみなさんのおかげです』などのバラエティ番組をヒットさせる。とんねるずの石橋貴明にテレビ局に関係なくマネされていて、石橋は「ダーイシ男」としてコントに仕立て上げた。 『夕やけニャンニャン』から誕生したおニャン子クラブに関して、傘下の音楽出版社であるフジパシフィック音楽出版(現・フジパシフィックミュージック)を介して、権利をレコード会社と折半させたほか、ファンクラブの運営も委託。自前のファッションブランド「Hip's road」を立ち上げ、これらのグッズ販売の会社を設立する(現在「フジテレビショップ フジさん」を運営する株式会社オンエア)など、フジサンケイグループのメディアミックスの基礎を作り上げた一人でもある。同番組の最終回では自ら番組に登場しおニャン子メンバーに卒業証書と称した送辞を読み上げている。 役員待遇に昇進した後、2005年の役員定年満了後も、三宅恵介[2]とともに嘱託として引き続きフジテレビに在籍しており、『ミュージックフェア』等を担当している。 番組演出以外では、1973年にチューリップ「心の旅」のミュージック・ビデオを制作。また、1975年の「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」の映像制作も担当。国内外の音楽関係イベントのプロデュース、演出も多数あり。映画『おニャン子ザ・ムービー 危機イッパツ!』ではスペシャルアドバイザーを務めた。 学生時代からエルヴィス・プレスリーの大ファンで、好きな曲は「ラヴ・ミー・テンダー(Love Me Tender)」。石田の定年(役員契約満了)記念特番『とんねるずの石田さんのおかげでした オールスター大感謝祭?台場の中心で、Iが叫ぶ?』では誕生日祝いとして、和田アキ子などが石田のためにこの曲を歌い、プレゼントした。 『GALAC』誌上のインタビューで「低俗と俗悪は違う。ふざける番組でも超えてはならない一線がある。悪ふざけにならないようにしなければならない」と自説を述べたことがある。ただし、(自戒はしているが)担当していた『とんねるずのみなさんのおかげです』にて、「木梨憲武さんを偲んで」という視聴者ドッキリ企画を行った際は、フジテレビに約800件の抗議電話が来る騒ぎになった事がある[3]。
来歴
エピソード