石田友汀
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石田 友汀(いしだ ゆうてい、宝暦6年(1756年 - 文化12年10月6日1815年11月6日))は、日本江戸時代中期から後期に活動した鶴澤派(狩野派の一派)の絵師
目次

1 略伝

2 作品

3 脚注

4 参考文献

略伝

京都出身。かつては石田家菩提寺・休務寺に残る過去帳から、石田幽汀の次男とされた。しかしその後の研究により、元は栢半兵衛という名前の幽汀門人で、社像などに彩色を家業とする町人の子だという[1]。ところが寛政5年(1793年)、幽汀の跡を継いだ石田遊汀が30歳で早世すると急遽養子入りして跡を継ぎ、翌年正月絵師とならなかった幽汀長男・勘助から岩上通松浦町(現在の四条堀川交差点近く)の幽汀宅を譲られた[2]。幽汀次男との誤認は、過去帳に養子入りの記載が欠けていたことによる。後に法橋となり禁裏御用絵師の1人として活躍、また他の町絵師とともに『東海道名所図会』などの名所図会などの版本挿絵も担当している。『平安人物志』文化10年(1813年)版では30番目に掲載され、不明門雪駄屋町(現在の京都市営地下鉄五条駅近く)在住とある。跡は養子の石田悠汀が継ぎ、栢家は石田悠汀門人という友篤が継いでいる。画風に先進性はないものの、画技自体は高く堅実な狩野派風を守っている。
作品

作品名技法形状・員数寸法(縦x横cm)所有者年代落款印章備考
蘭亭曲水図襖4面個人(
大津市歴史博物館寄託
雪中騎驢・泊船図六曲一双個人(大津市歴史博物館寄託)
西胡図六曲一双個人(大津市歴史博物館寄託)
黒馬図絵馬絵馬1面天孫神社絵馬堂1806年(文化3年9月)
黒馬図ホノルル美術館

脚注^ 土佐光貞 鶴澤探索 「禁中御用絵師任用願」(武田庸二郎 江口恒明 鎌田純子編 『近世御用絵師の史的研究』 思文閣出版、2008年3月、ISBN 978-4-7842-1392-4)。
^ 五十嵐(2011)

参考文献

土居次義 「石田幽汀考」『近世日本絵画の研究』 美術出版社、1970年、pp.401-403

五十嵐公一 「石田幽汀の未紹介史料」 兵庫県立歴史博物館紀要 『塵界』 22号、2011年、pp.3-10

江口恒明 「寛政二年以降の京都画壇における絵師の身分秩序」『美術史論集 第17号』 神戸大学美術史研究会、2017年2月20日、pp.63-92


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更新日時:2019年8月13日(火)09:41
取得日時:2019/09/15 01:41


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