石狩郡(いしかりぐん)は、北海道(石狩国)石狩振興局管内の郡。
人口18,001人、面積500.9km²、人口密度35.9人/km²。(2024年3月31日、住民基本台帳人口)
以下の1町1村を含む。 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町1村のほか、下記の区域にあたる。 日本書紀に斉明天皇6年3月阿倍比羅夫が大河の河口で蝦夷と粛慎の交戦を知ったとあり、この大河が石狩川の河口にあたると言われている。 江戸時代の石狩郡域は西蝦夷地に属し、慶長年間には松前藩によって石狩川左岸河口付近に石狩十三場所のひとつトクヒラ場所が開かれ北前船も寄航し大いに栄えた。貞享5年6月26日、水戸藩主・徳川光圀が派遣した快風丸が石狩に到着、御目付足軽深野萩右衛門が石狩川上流まで足を伸ばしている。元禄7年には石狩弁天社が創建されている。陸上交通は、渡島国から天塩国増毛郡へ至る道(国道231号などの前身)の途上にあたり、安政年間にはすでに石狩川を渡る石狩渡舟が場所請負人によって運営されていた。 江戸時代後期になると、文化4年国防上の理由から石狩郡域は天領とされた。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり幕府(箱館奉行)によって石狩役所が置かれ、幕命をうけた庄内藩が警固をおこなった。安政5年には能量寺および石狩八幡神社、安政6年には金龍寺および法性寺、文久3年には曹源寺が建立されている。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して石狩郡が置かれた。
当別町(とうべつちょう)
新篠津村(しんしのつむら)
郡域
小樽市の一部(銭函四・五丁目)
江別市の一部(石狩川以北の篠津・中島・八幡・美原)
石狩市の一部(厚田区・浜益区を除く)
歴史
郡発足までの沿革
郡発足以降の沿革北海道一・二級町村制施行時の石狩郡の町村(10.石狩町 11.花川村 12.当別村 13.新篠津村。桃:石狩市 青:区域が発足時と同じ町村)
1869年(明治02年)
8月15日(9月20日) - 北海道で国郡里制が施行され、石狩国および石狩郡が設置される。開拓使が管轄。
8月20日(9月25日) - 兵部省の管轄となる(北海道の分領支配)。
1870年(明治03年)1月8日(2月8日) - 再び開拓使の管轄となる。
明治4年 - 本町、弁天町、新町、浜町、横町、仲町、船場町、若生町、八幡町、親船町、生振村、花畔村が成立。