石狩国(いしかりのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つである。別称は石州。五畿八道のうち北海道に含まれた。道央の広大な領域を版図とし、現在の石狩振興局管内のうち千歳市・恵庭市を除いた部分、後志総合振興局管内のうち小樽市銭函4・5丁目相当区域[* 1]、空知総合振興局管内の全域、上川総合振興局管内の塩狩峠以南のうち占冠村を除いた部分と幌加内町に相当する。
通常、北海道の令制国は「○州」と略されることは少ないが、石北峠(北見国との境界線)や石北本線(石狩国 - 北見国)・石勝線(石狩国 - 十勝国)を除き、峠、鉄道線名などの名称に略称として用いられる場合には、石狩国は先に成立した石見国との重複を回避するため塩狩峠(天塩国との境界線)や狩勝峠(十勝国との境界線)のように「狩」と略される事が多い。 1869年(明治2年)の制定時の領域は、現在の北海道の上川総合振興局・空知総合振興局・石狩振興局管内から下記を除き、小樽市の一部(新川以東)を加えた区域に相当する。 ここでは石狩国成立までについても記述する。 『日本書紀』には、斉明天皇6年3月に阿倍比羅夫が遠征した際、大河の河口で蝦夷と粛慎の交戦を知ったとあり、この大河が石狩川にあたるとの説[1]がある。蝦夷征討が盛んに行われていた飛鳥時代から平安時代初期にかけて、札幌郡域内(現在の江別市)では須恵器などの副葬品が発見された江別古墳群が築かれた。現在確認されているものの中では国内最北の古墳で、その構造も胆振国千歳郡(現恵庭市)の茂漁古墳群や北東北の末期古墳と同様の群集墳であり、比羅夫が政所・郡領を置いた後志羊蹄(シリベシ)は札幌郡域(江別や札幌)周辺との説[* 2]がある(#外部リンクも参照。参考:奄美群島の歴史#古代)。2011年4月には北海道大学構内[* 3]でも同様の古墳(札幌市k39遺跡)が発見された。また、この時期蝦夷(えみし)の間では擦文文化も盛んであったといわれている。 鎌倉時代以降になると、北海道の日本海側や樺太には唐子と呼ばれる蝦夷(えぞ)がおり、唐子は蝦夷沙汰職・蝦夷管領(室町時代以降は蝦夷管領)が統括していた(『諏訪大明神絵詞』)。 時代が下り江戸時代ころになると、松前藩によって開かれたイシカリ十三場所、アツタ場所、ハママシケ場所など松前藩家臣が蝦夷(アイヌ)の人々と交易をおこなう知行地では、交易の拠点として各地に運上屋なども作られた。また運上屋は藩の出先機関の機能も兼ね備え、撫育政策(オムシャ)などを行い、このとき乙名・小使・土産取など役蝦夷の任命と掟書の伝達、扶持米の支給(介抱)なども行われた。アイヌの人々は百姓身分に位置付けられていた。制度的なものの詳細は商場(場所)知行制および場所請負制を、漁場の状況については北海道におけるニシン漁史を参照されたい。場所と後の郡の相対は下記のとおり。
領域
中川郡中川町・音威子府村・美深町
名寄市
士別市
上川郡下川町・剣淵町・和寒町
勇払郡占冠村
千歳市
恵庭市
沿革
イシカリ十三場所・・・石狩川河口周辺および石狩川本支流を管轄
トクヒラ場所・・・後の石狩郡(石狩川左岸河口付近)ハッシャブ場所・・・後の札幌郡(石狩川(現・茨戸川)左岸、発寒川合流地付近。現札幌市北区)シノロ場所・・・後の札幌郡(石狩川(現・茨戸川)左岸、篠路川
アツタ場所・・・厚田郡
ハママシケ場所・・・浜益郡
江戸時代初期の 正保元年(1644年)、石狩国域を含む「正保御国絵図」が作成され、貞享5年、水戸藩主・徳川光圀が石狩に快風丸を派遣し石狩川流域を調査している。元禄13年には、松前藩は蝦夷地の地名を記した松前島郷帳を作成し、幕府に提出。また正徳5年(1715年)になると、松前藩主は幕府に対し「十州島、唐太、チュプカ諸島、勘察加」は松前藩領と報告した。
江戸時代中期田沼意次治世の天明6年2月、佐藤玄六郎は幕府に提出した蝦夷地調査の報告書(「蝦夷地之儀是迄見聞仕候趣申上候書付」『蝦夷地一件』二)で、蝦夷地は穀物栽培を禁じており、上川郡域でアイヌが米作したところ、和人は籾・種を没収し償いさせた、と書いている(参考:奄美群島の歴史#近世)。山中で稗や粟を栽培している者もいたという。寛政4年石狩場所でも幕府による御救交易が行われた。これは蝦夷(アイヌ)に有利な交易で、老人・子供に支給米を、貧者に手当を与えたという(『蝦夷草紙後編』[2])。
江戸時代から明治時代初頭にかけての交通について、陸上交通[3]は、石狩湾岸を通る渡島国から天塩国増毛郡への道(国道231号などの前身)の途上となっており、石狩郡では安政年間にはすでに場所請負人によって石狩川を渡る石狩渡舟が運営され、厚田郡の濃昼山道、浜益郡の送毛山道、浜益郡から天塩国増毛郡に至る増毛山道なども開削されている。