石油危機
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オイルショック、オイル・ショック(英語: Oil shock)とは、1970年代に2度発生した、原油の供給逼迫および原油価格の高騰に伴い、世界経済全体がきたした大きな混乱の総称である。石油危機(せきゆきき、英語: Oil crisis)または石油ショック、オイル危機とも称される。

1973年に第四次中東戦争を機に第1次オイルショックが始まり(1977年3月まで)、1978年にはイラン革命を機に第2次オイルショック(1983年3月まで)が始まった。

石油輸出国機構(以下OPEC)諸国の国際収支黒字は、1973年の時点では10億ドルであったが、1974年には約700億ドルに急増[1]。一方、発展途上国向けの民間銀行貸し付け額は、1970年の30億ドルから1980年の250億ドルに跳ね上がった[1]

当時、世界各国はユーロ債市場から資金を調達した[2]経済協力開発機構(OECD)加盟国は長期の固定金利債を国債として起債することができたが、非産油途上国にはカントリーリスクがあるためにそうした手段がとれず、代わりに負担が大きい変動金利のシンジケートローンに頼った[2] 1861年?の原油価格。100年近く続いた安値が1970年代に二度にわたって破られたことがわかる。.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  実質物価変動補正)  名目(当時の金額)
第1次「アメリカ合衆国の経済史#インフレの悲哀: 1970年代」も参照


発生に至る情勢

1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発。これを受け10月16日に、OPEC加盟産油国のうちペルシア湾岸の6カ国が、原油公示価格を1バレル3.01ドルから5.12ドルへ70 %引き上げることを発表した。翌日10月17日にはアラブ石油輸出国機構(以下OAPEC)が、原油生産の段階的削減(石油戦略)を決定した。またOPEC諸国は10月20日以降、イスラエルが占領地から撤退するまでイスラエル支持国(アメリカ合衆国オランダなど)への経済制裁(石油禁輸)を相次いで決定した。さらに12月23日には、OPEC加盟のペルシア湾岸の産油6カ国が、1974年1月より原油価格を5.12ドルから11.65ドルへ引き上げると決定した。
発生前の状況と日本における対策日本の公定歩合の推移。インフレ抑制のため1974年(昭和49年)頃と1980年代初頭は高い金利になっている。

石油価格の上昇は、エネルギー源を中東の石油に依存してきた先進国の経済を脅かした。

1960年代以降にエネルギー革命を迎え、エネルギー源を石油に置き換えていた日本は、ニクソン・ショック(ドル・ショック)から立ち直りかけていた景気を直撃。前年からの列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレーションが発生していたが、石油危機によって相次いだ便乗値上げなどによってさらに加速されることとなった。

当時の日本は中東の政治に深く関わってはおらず、イスラエルを直接支援したこともなく、イスラエルに対しては中立の立場ではあったが、最大のイスラエル支援国家であるアメリカ合衆国と強固な軍事同盟を結んでいたため、イスラエル支援国家とみなされる可能性が高く、田中角栄副総理三木武夫(当時)を急遽中東諸国に派遣して日本の立場を説明して、支援国家リストから外すように交渉する一方で、国民生活安定緊急措置法石油需給適正化法を制定して事態の深刻化に対応した。
日本への影響日本の実質GDP成長率の推移日本の消費者物価指数(COICOP2018基準)。橙がエネルギー。

オイルショック前からニクソン・ショックによる円高不況で不況カルテルが沢山できていた。1973年(昭和48年)11月16日、石油緊急対策要綱を閣議決定、「総需要抑制策」が採られる。日本の消費は一層低迷し、大型公共事業が凍結・縮小された。

日本の消費者物価指数で1974年(昭和49年)は23 %上昇し、「狂乱物価」という造語まで生まれた。インフレーション抑制のために、公定歩合の引き上げが行われ、企業の設備投資を抑制する政策がとられた。結果、1974年は▲1.2 %という戦後初めてのマイナス成長を経験し、高度経済成長がここに終焉を迎えた。

「狂乱物価」について経済学者小宮隆太郎は、日本銀行のオイルショック前の行き過ぎた金融政策とその後の引き締めの遅れが、企業・労働組合などを製品価格上昇・賃上げを走らせたとしている[3]

このような不況が、1975年以降に日本国債が大量に発行される契機となった。それはシンジケート団が引き受けきれないほどの規模となり、1977年に発行後1年以上経過した日本国債は市中売却が認められるようになった[4]。ここに金利を市場の実勢値まで抑える財政上の必要が生じた。そこで1979年に譲渡性預金が導入され、家計の余剰資金を銀行が吸い上げるようになった。一方で1973年から早々に無担保転換社債を認めるなどの社債自由化が推進され、結果として国債の相対的な低リスクが演出された[5]。もっとも、後年の国債残高推移、特に1995年から2005年までの増加率に比べれば、オイルショック当時の発行額はずっと小規模であった。
公共事業(公共投資)

整備新幹線の建設が大幅に延期され、完成時には交通事情が大きく変化していた[注 1]

本州四国連絡橋3ルートの着工延期の指示が下った。起工式5日前のことであった。その後計画された3ルートのうち、瀬戸大橋の1ルート3橋(瀬戸中央自動車道、大鳴門橋、大三島橋、因島大橋)のみ、着工が1975年(昭和50年)に決定[6]した。

生産部門

トイレットペーパー洗剤など、原油価格と直接関係のない物資の買占め騒動(トイレットペーパー騒動・洗剤パニック[7]

紙資源の不足から、週刊誌や漫画雑誌の頁数が軒並み削減され、小冊子程度の枚数となる。書籍では文字を小さくかつ頁内に多く収めるために行数が増やされるなどが行われたため、21世紀の書籍状況から考えると扱いにくい書籍が相次いで発刊され、漫画の単行本や小説の文庫本が書籍取扱の主力製品となっていた。

燃料浪費の忌避

燃料高騰と騒音問題により、
超音速輸送機の需要が激減、コンコルドに対しての発注取消が相次ぐ。

燃料高騰により、燃費のよくなかったロータリーエンジン採用を多くの自動車メーカーが断念。また、当時ロータリーエンジンを実用化させ、多数ラインナップしていたマツダには大打撃となり、これ以降はロータリーエンジン搭載車を減少させていった。

燃料高騰と騒音問題により、燃費のよくなかった鉄道用ガスタービン動車が試作されたが、実用化を断念(詳細は国鉄キハ391系気動車を参照)。諸外国でもフランスではガスタービン動車がかなり普及しており、超高速列車TGVにも採用される予定であったが断念され、電気列車方式に変更された。

重油を莫大に使う石油火力発電所を見直し、石油備蓄設備建設を促し、エネルギー安全保障の観点から、原子力発電所整備を促した。

1960年代から70年代初頭にかけて長距離カーフェリー長距離バスが急速に発展したが、オイルショック後の燃料費高騰が影響して、路線廃止が相次いだ(東名急行バスなど)。


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