オイル・ショック(英語: Oil shock)とは、不景気の通称で1973年(第1次)と1979年(第2次)に始まった(ピークは1980年)、原油の供給逼迫および原油価格高騰と、それによる世界の経済混乱である。石油危機(せきゆきき、英語: Oil crisis
)または石油ショックとも称される。OPEC諸国の国際収支黒字は1973年には10億ドルであったが、1974年には約700億ドルに急増[1]。一方、発展途上国向けの民間銀行貸し付け額は1970年の30億ドルから1980年の250億ドルに跳ね上がった[1]。世界各国はユーロ債市場から資金を調達した[2]。OECD加盟国は長期の固定金利債を起債することができたが、非産油途上国はカントリーリスクのためにそうした手段がとれず、代わりに負担が大きい変動金利のシンジケートローンに頼った[2]。 1861年?2007年の原油価格。100年近く続いた安値が1970年代に二度にわたって破られたことがわかる。「アメリカ合衆国の経済史#インフレの悲哀: 1970年代」も参照 実質(物価変動補正) 名目(当時の金額)1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発。これを受け10月16日に、石油輸出国機構(OPEC)加盟産油国のうちペルシア湾岸の6カ国が、原油公示価格を1バレル3.01ドルから5.12ドルへ70%引き上げることを発表した。翌日10月17日にはアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が、原油生産の段階的削減(石油戦略)を決定した。またアラブ石油輸出国機構(OAPEC)諸国は10月20日以降、イスラエルが占領地から撤退するまでイスラエル支持国(アメリカ合衆国やオランダなど)への経済制裁(石油禁輸)を相次いで決定した。さらに12月23日には、石油輸出国機構(OPEC)に加盟のペルシア湾岸の産油6カ国が、1974年1月より原油価格を5.12ドルから11.65ドルへ引き上げる、と決定した。
石油危機前の状況と日本における対策 日本の公定歩合の推移。インフレ抑制のため1974年(昭和49年)頃と1980年代初頭は高い金利になっている。
石油価格の上昇は、エネルギー源を中東の石油に依存してきた先進工業国の経済を脅かした。1960年代以降にエネルギー革命を迎えエネルギー源を石油に置き換えていた日本は、ニクソン・ショック(ドル・ショック)から立ち直りかけていた景気を直撃。前年からの列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレーションが発生していたが、石油危機により相次いだ便乗値上げなどにより、さらにインフレーションが加速されることとなった。
当時の日本は中東の政治に深く関わってはおらず、イスラエルを直接支援したこともなく、中立の立場であった。しかし、最大のイスラエル支援国家であるアメリカ合衆国と強固な同盟を結んでいたため、イスラエル支援国家とみなされる可能性が高く、急遽三木武夫副総理を中東諸国に派遣して日本の立場を説明して支援国家リストから外すように交渉する一方で、国民生活安定緊急措置法・石油需給適正化法を制定して事態の深刻化に対応した。 オイルショック前からニクソン・ショックによる円高不況で不況カルテルが沢山できていた。1973年(昭和48年)11月16日、石油緊急対策要綱を閣議決定、「総需要抑制策」が採られる。日本の消費は一層低迷し、大型公共事業が凍結・縮小された。 日本の消費者物価指数で1974年(昭和49年)は23%上昇し、「狂乱物価」という造語まで生まれた。インフレーション抑制のために公定歩合の引き上げが行われ、企業の設備投資を抑制する政策がとられた。結果、1974年(昭和49年)は-1.2%という戦後初めてのマイナス成長を経験し、高度経済成長がここに終焉を迎えた。 「狂乱物価」について経済学者の小宮隆太郎は、日本銀行のオイルショック前の行き過ぎた金融緩和政策とその後の引き締めの遅れが、企業・労働組合などに製品価格上昇・賃上げを走らせたとしている[3]。 経済学者の原田泰は「1970年代の日本の経済成長率の低下は、石油ショックでは説明できない。欧米諸国は3分の2程度の低下で、アジア諸国はほとんど低下しなかったが、日本だけが長期的な経済成長率が3分の1にまで低下した。また、1980年以降、石油価格は実質で1970年代初めの水準に戻ったが、日本の経済成長率は戻らなかった」と指摘している[4]。 このような不況が、1975年以降に日本国債が大量に発行される契機となった。それはシンジケート団が引き受けきれないほどの規模となり、1977年に発行後1年以上経過した日本国債は市中売却が認められるようになった[5]。ここに金利を市場の実勢値まで抑える財政上の必要が生じた。そこで1979年に譲渡性預金が導入され、家計の余剰資金を銀行が吸い上げるようになった。一方で1973年から早々に無担保転換社債を認めるなどの社債自由化が推進され、結果として国債の相対的な低リスクが演出された[6]。もっとも、後年の国債残高推移、特に1995年から2005年までの増加率に比べれば、オイルショック当時の発行額はずっと小規模であった。
日本への影響
公共事業
整備新幹線の建設が大幅に延期され、完成時には交通事情が大きく変化していた。
本州四国連絡橋3ルートの着工延期の指示が下った。起工式5日前のことであった。その後計画された3ルートのうち、1ルート(瀬戸大橋)のみ、着工が1975年(昭和50年)に決定した。なお、本州四国連絡橋3ルートのひとつである西瀬戸自動車道(しまなみ海道)の一部を構成する大三島橋は、1979年(昭和54年)に本州四国連絡橋としては最初に開通したことから、第1次オイルショック前後から着工が決定されていたと思われる。