石毛 宏典基本情報
国籍 日本
出身地千葉県旭市
生年月日 (1956-09-22) 1956年9月22日(66歳)
身長
体重180 cm
75 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション三塁手、遊撃手
プロ入り1980年 ドラフト1位
初出場1981年4月4日
最終出場1996年7月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
銚子市立銚子高等学校
駒澤大学
プリンスホテル
西武ライオンズ (1981 - 1994)
福岡ダイエーホークス (1995 - 1996)
監督・コーチ歴
福岡ダイエーホークス (1998)
オリックス・ブルーウェーブ (2002 - 2003)
千葉商科大学付属高等学校
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石毛宏典
YouTube
チャンネル
石毛宏典TV
石毛 宏典(いしげ ひろみち、1956年9月22日 - )は、元プロ野球選手(内野手)・監督・野球解説者、YouTuber。千葉県旭市出身。
日本に於ける独立リーグの創設者・運営者としても知られ、IBLJを設立し、初代代表取締役を務めた。愛称はミスターレオ、ハチ[1]。
現役時代は主に西武ライオンズで活躍し、1996年に福岡ダイエーホークスで現役引退後、同球団の二軍監督・オリックス・ブルーウェーブの監督などを経て、2004年に四国アイランドリーグ(現:四国アイランドリーグplus)を創設し、2009年創設の関西独立リーグ (初代)でも、最高顧問を務めた。
2009年より城西国際大学客員教授。2014年6月1日付で、千葉商科大学付属高等学校硬式野球部のテクニカルアドバイザーに就任し[2]、その後、退任する。2020年よりYouTuberとしても活動する。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
経歴
プロ入りまで.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}
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銚子市立銚子高等学校では1番打者、遊撃手として活躍し、3年次に1974年夏の甲子園予選千葉大会で決勝に進出する。しかしエースの土屋正勝、4番打者の篠塚利夫を擁する銚子商業高校に完封負けし、甲子園出場を逃した。1年下のチームメイトに銚子洋二(早大、銚子利夫の兄)、遠藤伸久両投手がいた。同年のドラフト会議でロッテオリオンズから6位指名を受けたが、入団を拒否し進学を公言した。
駒澤大学へ進学し、東都大学野球リーグでは3年生までに5回優勝を経験。1977年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で原辰徳のいた東海大を延長10回で降し、優勝した。4年次には主将をつとめるが、尾藤福繁、渡部一治ら攻守の主力が卒業し、1978年春季リーグでは一転最下位に沈む。日大との入替戦では投手が払底、急遽石毛が登板し勝利投手となった。同年秋季リーグも4位と低迷するが、石毛は首位打者を獲得し、大学通算では107試合出場、378打数114安打、打率.302、7本塁打、57打点。ベストナイン6回。通算114安打は藤波行雄の133安打、高木豊の115安打に次ぐリーグ3位で、1976年から2年連続で、日米大学野球選手権大会日本代表に選出された。
大学卒業後はプリンスホテルに入社した。チームメイトには住友一哉、中尾孝義、金森栄治などがいた。1979年の第50回都市対抗に東芝府中の補強選手として出場する。初戦第1打席で本塁打を打つなどしたが、準々決勝で中尾が補強されていた熊谷組に敗れた。同年の第4回インターコンチネンタルカップ日本代表に選出され、日本の準優勝に貢献した。1980年にはプリンスホテルとして初となる第51回都市対抗に出場するが、2回戦で新日鉄釜石に延長13回の末に敗退した。同年の第26回アマチュア野球世界選手権日本代表にも選出される。 1980年度ドラフト会議を前に、プロ入り拒否の態度を示していたが、直前に西武に1位指名であればプロ入りすると表明する[3]。ドラフト会議では、西武ライオンズと阪急ブレーブスから1位指名を受け、西武が石毛の指名を引き当て、入団した。 1981年は開幕から遊撃手、1番打者として出場し、一時はロッテの落合博満と首位打者争いを演じるなど活躍した。同年は打率.311(リーグ7位)、21本塁打の記録を残す。長嶋茂雄以来となる、新人打者として規定打席に達しての打率3割を達成し、新人王を獲得した。
現役時代