石本 美由起
誕生石本 美幸
1924年2月3日
広島県大竹市
死没 (2009-05-27) 2009年5月27日(85歳没)
職業作詞家
言語日本語
国籍 日本
活動期間1948年 - 2009年
ジャンル演歌
文学活動『新歌謡界』
代表作主な作品を参照
デビュー作「長崎のザボン売り」
パートナー江口夜詩、上原げんと、古賀政男、船村徹、市川昭介 ほか
影響を受けたもの
北原白秋、ゲーテ、高橋掬太郎
影響を与えたもの
星野哲郎、松井由利夫、八反ふじを、たなかゆきを
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石本 美由起(いしもと みゆき[出典 1]、男性、1924年2月3日 - 2009年5月27日)は、日本の作詞家[出典 2]。本名は美幸[出典 3]。
荒廃した戦後の日本に希望に満ちた歌詞で永遠に歌い継がれる名曲を生んだ、昭和の歌謡界を代表する作詞家の一人である[出典 4]。広島県大竹市立戸出身[出典 5]。 幼少から喘息を患い、家に閉じこもるような生活を送る[出典 6]。生家は宮島や江田島など瀬戸内海を見渡せる風光明媚な場所に建ち、幾分救われる。そばにある文学は全て読んだが、なかでも北原白秋やゲーテを読みふけった[出典 7]。1944年、海軍大竹海兵団に入隊するが[10]、すぐ体調を崩して岩国海軍病院に入院[10]。慰問に来た東海林太郎の歌声に戦争に傷ついた兵士たちが瞳を輝かせるのを見て歌の魅力を知った[出典 8]。復員後の1946年[2]、高橋掬太郎が主宰する歌謡同人誌『歌謡文芸』に投稿を始める[出典 9]。夢中になった白秋の詩『思い出』の中の一篇「ザボンのかげ」からインスピィレーションを得て「長崎のザボン売り」という詩を書き[1]、同人誌に投稿すると、作曲家江口夜詩の目にとまり[10]、1948年に小畑実の歌でレコード発売され大ヒットした。1950年暮れ、東京に住まいを移し、キングレコードの専属となって作詞家としてのスタートを切る。 翌1951年、作曲家上原げんとに見込まれ共にコロムビアレコードに移ったことで、上原をはじめ古賀政男、船村徹、市川昭介らの作曲家とコンビを組み、美空ひばり、島倉千代子、都はるみらの楽曲を手がける[出典 10]。特に美空ひばりには、大ヒットとなる「ひばりのマドロスさん」、「港町十三番地」[13]、「哀愁波止場」、「悲しい酒」[出典 11]、「人生一路」などの詞を提供し、ひばり伝説の一翼を担った[出典 12]。美空ひばりには約200作を提供[出典 13]。加藤和也は「母は最後まで石本先生の歌を大事にしていた」と話し[3]、ひばり自身が選ぶコンサートの曲には必ず石本作品があった[3]。他に遠藤実らとこまどり姉妹のデビュー「浅草姉妹」等も手がけている[11]。 人間に寄り添い続けた「心の詩人」[11]。総作詞作品は3500曲以上にも及び[出典 14]、作詞界の大御所的存在だった[出典 15]。病弱で辛い青春時代を過ごしたことから、歌が持つ力と温かさを誰よりも知り抜いていた[11]。敗戦で打ちひしがれた日本人の心を何より慰めたのは「流行歌」[11]。戦後の復興と高度成長期を大衆とともに支えた数々の名曲を手がけた一人であった[出典 16]。他の代表曲には、故郷の窓から遠い空を想い続けた少年の日を思い出して書いたという「憧れのハワイ航路」や[出典 17]、「薔薇を召しませ」、「陽気なハーモニカ娘」、「こんなアベック見たことない」、「渡り鳥いつ帰る」、「逢いたかったぜ」、「東京の人さようなら」、「逢いたいなァあの人に」、「ソーラン渡り鳥」、「十国峠の白い花」、「おんなの海峡」、「大ちゃん数え歌」(テレビアニメ「いなかっぺ大将」主題歌)[2]、「長良川艶歌」(日本レコード大賞)、「矢切の渡し」(日本レコード大賞)[11]、「河内おとこ節」[出典 18]、「女の旅路」(日本レコード大賞)などがある[出典 19]。「長良川艶歌」、「矢切の渡し」は2年連続の日本レコード大賞の偉業だった[出典 20]。「酒場ひとり」は1992年日本作詩大賞グランプリ[17]。 この他、玖波小学校
来歴・人物