石平_(評論家)
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石平
せきへい(シー・ピン)
誕生 (1962-01-30)
1962年1月30日(62歳)
中華人民共和国 四川省成都市
職業作家評論家
言語中国語
日本語
国籍 日本
教育北京大学哲学
(1980年9月 - 1984年7月)
最終学歴北京大学哲学
活動期間2002年1月 -
ジャンル評論
主題日中の政治経済外交問題
代表作『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』
主な受賞歴第23回山本七平賞(2014年11月)
デビュー作『なぜ中国人は日本人を憎むのか』(2002年1月)
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石平[注 1](せき へい、出生名:石平、シー・ピン、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Shi Ping、1962年昭和37年〉1月30日[1] - )は、日本の国際問題評論家[1]

主に日中問題・中国問題を評論している[2]2007年(平成19年)11月に日本に帰化した。
人物
生い立ちから日本との関わり

1962年1月30日、中華人民共和国の四川省成都市に誕生した。1966年5月に始まった文化大革命の最中、教師であった両親が大学から農場へ下放された。父親は物理教師であったが、下放されてからは豚の畜産に従事しており、以後、四川省の農村部で漢方医である祖父によって養育された。祖父は石に漢方医を継がせるべく、医者になるための教養として密かに「論語」を教えていたが、石が11歳の時に肺がんで死去した[3]

中学校時代はゴミ拾いの貧しい老婆が近所に住んでいて、いつも学校帰りの石少年ら子供たちに、笑顔で「勉強頑張ってね」と声をかけていたが、ある日突然その老婆がいなくなり、「反革命分子」として政府に逮捕されたことを知った[4]。数日後に老婆はトラックに乗せられて町中の市民に見せつけるため一巡させられた後、処刑場で銃殺された[4]。この老婆が「反毛主席」の大罪で処刑された理由が、「ゴミ捨て場から拾った毛沢東の顔写真が印刷された新聞紙大根を包んでいたから」ということをその後知った石少年は衝撃を受けた[4]

1980年9月に北京大学哲学部に入学し、1984年7月に卒業した。北京大学在学中の1982年頃より毛沢東暴政の再来を防ぐ目的で民主化運動に情熱を傾け始める。1988年(昭和63年)4月に日本に留学して日本語学校に入学した。1966年5月の文化大革命及び1989年6月に勃発した天安門事件におけるの党利党略ぶりへの憤怒と絶望感を抱き、「この国にはもはや用が無い。何の愛着も義理も無い。」と祖国である中華人民共和国との精神的決別に至った[4]。その一方、留学中の日本で中国の古き時代の文化を守って発展させた日本文化に魅力を感じるようになり、孔子や論語の思想が日本の精神に生き続けていると感激し、次第に「愛日主義者」となっていった[3][5]。なお1995年に民間研究機関に勤務していた[要出典]。

2002年(平成14年)1月に中華人民共和国国内に広がる反日感情をレポートした書物を出して論壇デビューを果たし、以来『正論』、『ボイス』、『ウィル』などの保守論壇誌に論考を寄稿し、日中関係・中国問題などを論じている。またフジテレビ・読売テレビ・テレビ朝日・TBSなどの中国関連ニュース番組・討論番組でコメンテーターを務めている[要出典]。
日本へ帰化

2007年(平成19年)11月30日には日本に帰化[6]、2008年(平成20年)4月に拓殖大学客員教授に就任した。夏には公式サイトを開設し(#外部リンク)、同時にまぐまぐ無料メールマガジンも発行開始した[7]

日本名は石平〈せき・へい〉であるが、石平だと日本では苗字だと思われることもあり、ツイッターでは差別化を兼ねて冗談半分で「太郎」をつけて『石平太郎』と名乗っている[2][8]

2009年(平成21年)3月より産経新聞で、隔週連載コラム「石平のChina Watch」の連載を開始した[9]。同年8月14日に『私は「毛主席の小戦士」だった』の改題改訂版である『私はなぜ「中国」を捨てたのか』を刊行した。
活動・主張
歴史認識

2011年3月に出版された『日中をダメにした9人の政治家』では、『日本の教育については「子供達に一方的に、日本は侵略国家だったと教えるのは止めるべきである(以下省略)。道徳心愛国心を教えるのも当然だが、歴史教科書の記述は中立でなければならない。」』と主張している[10]

中国崩壊論の代表的な論者とみなされることが多いが、石平本人は「崩壊するなどとは言っていない」・「いつ崩壊するなどと予言したことはない。持続不可能と指摘しているだけだ」とニューズウィークのインタビューで主張している。中国崩壊というタイトルをつけた自著については、出版社側が勝手にそのような名称にしただけだと主張している。また中国に先駆け、日本はバブル景気が弾けた時に崩壊したと主張している。

同年3月に出版された『一体どこが「侵略」だというのか』では、『日本に来るまで南京大虐殺など一度も聞いたことが無かった。中国の小学校、中学校の教科書にも南京大虐殺なんて載ってませんでした(以下省略)。?介石自身も抗議していない。日本留学から中国に帰ったとき、南京出身の大学のクラスメイトに、「親父さんかお祖父さんから、大虐殺の噂を聞いたことがあるか」と聞いたら、やはり「ない」と言っていました。中国では、歴史的な大虐殺が何度もありました(以下省略)。そういう所を掘り返すと、たしかに人骨がいっぱい出てくるんです。面白いことに、二千年前の記述でも嘘じゃなくて、必ず出てくる。しかし、南京から何十万体の骨が出てきたなんて話、一つも聞いたことがない』などと主張している[11]
文明論

2006年10月に出版された著書の『私は「毛主席の小戦士」だった』の後半部分で独自の日中の文明比較論を行い、皇室神道を「コア」とする日本の民族・文化などを賞賛し、自らは日本を愛する「愛日主義者」であると宣言した[12][5]岡崎久彦産経新聞の「正論欄」で、石の日本観を「その日本理解の深さは明治以来の外国人哲学者の中でもトップクラス」だと評価し[13]入江隆則伊原吉之助も同じ「産経新聞・正論欄」にて石の「日本文明論」を評価している[13]

2007年12月に出版された渡部昇一・岡崎久彦・葛西敬之山谷えり子北尾吉孝などとの対談集『論語道場』などでは、「中国で生まれた孔子の論語の精神は、むしろ日本で一番よく理解されて生かされている」との見方を示し[14][15]、日本語における「敬語」の体系の奥深さについて触れつつ、「の心」の言語感覚が自然に身についている日本人の精神世界にこそ、「孔子様の思想と心情の真髄」が生きて受け継がれていると語っている[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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