石巻線
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石巻線
石巻線を走行するキハ110系
(2016年5月 佳景山駅 - 鹿又駅間)
基本情報
日本
所在地宮城県
起点小牛田駅
終点女川駅
駅数14駅
電報略号イシセ[1]
開業1912年10月28日
所有者東日本旅客鉄道(JR東日本)
運営者東日本旅客鉄道(全線)
日本貨物鉄道(小牛田 - 石巻間)
使用車両使用車両を参照
路線諸元
路線距離44.7 km
軌間1,067 mm
線路数単線
電化方式全線非電化
閉塞方式自動閉塞式(特殊)
保安装置ATS-SN[2]
最高速度85 km/h

路線図


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石巻線(いしのまきせん)は、宮城県遠田郡美里町小牛田駅から同県牡鹿郡女川町女川駅を結ぶ、東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線地方交通線)である。

ラインカラーはピンク(■)で、全線を東北本部が管轄している。IC乗車カードSuica」は利用エリア外となっているが、小牛田駅石巻駅を利用する場合に限り、Suicaを使用することができる特例が認められている[3]
歴史

1892年(明治25年)、国が建設すべき鉄道路線を定めた鉄道敷設法が発布され、その中の奥羽線の部において「宮城県下仙台ヨリ山形県下天童若ハ宮城県下石ノ巻ヨリ小牛田ヲ経テ山形県下舟形町ニ至ル鉄道」が規定された。これは、現在の仙山線、石巻線、陸羽東線に当たる路線であるが、この時はいずれの区間も着工には至らなかった。このような状況の中、1894年(明治27年)に前谷地村の斎藤善右衛門ら216人が発起し、逓信大臣宛に「石巻鉄道株式会社及鉄道敷設申請書」を提出した。この石巻鉄道は、石巻を起点に、小牛田古川岩出山を経由して、玉造郡温泉村鳴子)鍛冶谷沢まで鉄道の敷設を企図したものだった。当時、小牛田には現在の東北本線に当たる日本鉄道の小牛田駅が設置されていて、これとの連絡も考慮していた[4]。この鉄道計画に対して1896年(明治29年)に仮免許が交付され、1897年(明治30年)に正式な敷設許可が出された。石巻、鹿又、和渕、涌谷、小牛田、古川、岩出山、下宮、鍛冶谷沢の9駅を、日本鉄道と同じ軌間1067ミリメートルの線路で結び、貨車、客車あわせて73両をもって運輸に当たる計画だった。しかし、日清戦争後の不況の影響で株金の払い込みが少なく、石巻鉄道は倒産した[5]

1909年(明治42年)になると、石巻と小牛田を軽便鉄道で結ぶ計画が持ち上がるが、これも実現はしなかった[6]。1910年(明治43年)に鉄道敷設法が改正され、陸羽東線と陸羽西線の着工が決定されたが、石巻方面への鉄道敷設はこの時も将来的な計画路線として据え置かれた。計画上の沿線町村は政府に対して陳情を盛んに行ったが、当時の逓信大臣だった後藤新平は、北上川改修の審議があり鉄道敷設の見込みは当面ないとして、私設鉄道を勧めたという。こうした中で、1911年(明治44年)に実業家で当時貴族院議員だった荒井泰治が有志の働きかけに応える形で中心となり、仙北軽便鉄道株式会社が設立された。この鉄道会社は石巻と小牛田の間のみならず、築館から石越を経由して登米に至る、合わせて二つの路線を計画していた[7]。この鉄道の敷設に対して、石巻町は線路および駅敷地を仙北軽便鉄道に寄付し、沿線の牡鹿郡桃生郡遠田郡からも、開業後に利益がでたり建設を中止したら還付するなどの条件付で、寄付金が寄せられた。石巻と小牛田の間の路線は、予算を大幅に超過する53万7717円をもって1912年(大正元年)に完成した。一方で資金不足のために築館と登米を結ぶ路線は着工されなかった[8]

開業時に設置された駅は、小牛田と石巻のほか、涌谷、前谷地、佳景山、鹿又である。車両の動力は蒸気機関で軌間は2フィート6インチの路線だった。石巻から小牛田の運賃は並等で30銭、または44銭とも伝わっている。1918年(大正7年)の時点で、仙北軽便鉄道は機関車4両、客車12両、貨車31両を保有していた。運行日数は1年のうち200日前後で、多くても300日にはならなかったという。鉄道事業として利益は上げていたものの、物価の上昇が会社の負担になった[9]。開業後しばらくすると、軽便鉄道であるがゆえに、列車の速度が遅い事、貨物の積載量が少ない事、小牛田駅で東北本線と貨物の積み替えが必要な事が問題視されるようになり、1916年(大正5年)から石巻町が政府に対して国有化に向けた働きかけを行った。1919年(大正8年)に仙北軽便鉄道は国有化され、仙北軽便線と名を変えた[10]。この後、仙北軽便線は軌間を1067ミリメートルに広げる工事を経て石巻線となる。

石巻線は石巻から女川まで延伸されることになるが、それ以前にこの地域には牡鹿軌道と金華山軌道という二つの鉄道会社が存在した。牡鹿軌道は北上川東岸の石巻湊と渡波を結ぶ馬車鉄道として1915年(大正4年)に開業したが経営状態が悪く、1924年(大正13年)に新会社の金華山軌道が牡鹿軌道を吸収してこれの資産や営業権を引き継いだ。1926年(大正15年)に金華山軌道は渡波から女川まで路線を延伸し、石巻と女川を結ぶ路線となった[11]。一方、1922年(大正11年)の鉄道敷設法で「宮城県松島ヨリ石巻ヲ経テ女川ニ至ル鉄道」が規定され、これに伴って石巻町や女川町は連携して石巻線の女川延伸の早期着工を政府に働きかけた。松島と石巻の間は宮城電気鉄道が敷設される予定だった事からこの区間の着工は見送られ、石巻から女川までの部分が着工された。路線延伸工事は1936年(昭和11年)に始まって1939年(昭和14年)に完成した。これに合わせて金華山軌道は廃止された。女川への延伸にあたって、石巻から渡波の間を、内陸の稲井を経由するか、金華山軌道と同じように海沿いを通すかで問題になった。結局、鉄道大臣らが現地視察した結果、稲井を経由することになり、こうして小牛田から女川に至る現在の石巻線のルートが出来上がった[12][13]。1937年(昭和12年)2月22日には女川トンネルの建設現場で落盤が発生。14人が行方不明となったが、2日後までに13人が救出、1人の死亡が確認されている[14][15]

1953年(昭和28年)、まばらだった石巻線の運輸形態を改善するために、8両のキハ45000形(キハ17形)気動車が投入された。同年12月15日に小牛田駅で祝賀が行われ、翌16日からこの新型車両は走り始めた。1954年(昭和29年)に8両がさらに増備され、石巻線の定期旅客列車は全て気動車で運行されることになった[16]
東日本大震災以後

2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震東日本大震災)では、地震津波の被害を受け、全線にわたり不通となった。同年5月19日までに小牛田駅 - 石巻駅間、2012年3月17日には石巻駅 - 渡波駅間、2013年3月16日[17]には渡波駅 - 浦宿駅間が復旧した。残る浦宿駅 - 女川駅間は軌道の損傷や女川駅の駅舎消失により長期不通となり、同区間にてバス代行輸送が行われていたが[18]、2015年3月21日に復旧した[19][20]

JR東日本は被災した路線について「線路の位置変更も考えていくことになる」との考えで、現在の線路よりも内陸部への移設も視野に入れているため復旧には時間がかかることを明らかにし[21]、特に被害が大きかった女川駅を内陸側に移設することが検討された[22]

2012年3月5日には、被害の大きかった女川駅を除く渡波駅 - 浦宿駅間を2013年度初頭を目処に復旧させるとJR東日本から発表され[23]、同年12月21日には翌年3月16日に予定されるJRグループダイヤ改正に合わせて同区間を復旧させることが正式に発表された[17]


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