石州流
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石州流 (せきしゅうりゅう)は、片桐石州(貞昌)を流祖と仰ぐ武家茶道の流派の総称。一口に石州流と言っても様々であり、初期の伝承系譜によって大きくいくつかの派に分けられるほか、地域ごとに様々なグループを形成している。さらにこれらのグループには、片桐家を宗家として仰ぐもの、慈光院を宗元として緩やかに糾合したもの、引き続き独立しているものとがある。また片桐家の菩提寺・大徳寺高林庵(大徳寺芳春院内)を宗元として諸派の糾合グループもある。
歴史

片桐貞昌(石州)は大和小泉藩1万3000石余りを知行する大名で、知恩院修復の普請奉行をはじめとして、作事・普請の才を認められた人であった。茶の湯は千道安古田織部の門人であった桑山宗仙(左近)に師事していた。門下に3代将軍徳川家光の異母弟にあたる保科正之があり、その推挙により4代将軍家綱の茶の湯指南役となったことで、以後江戸時代を通じて石州流が幕府の茶道として広がっていくことになる。
片桐家

大和小泉藩は石州の三男の片桐貞房が継いだが、茶湯指南の職を継いだ訳ではない。藤林宗源の系譜が片桐家中を出て本庄家に移ったこと(後述)も合わせると、おそらく片桐家では茶湯の伝承に関心がなかった時期があると考えられる。歴代の中で8代藩主片桐貞信は茶人として知られており、江戸千家の茶風を加味して新石州流と称したと伝えられるが、これもその後伝承された痕跡は残っていない。

昭和初期に小泉の屋敷の主人だった水田秀光が中心となって、当時の当主である片桐貞央子爵を軸に石州流の大同団結が図られた。その結果として、戦後に財団法人高林庵(こうりんあん)が発足し、片桐家を宗家とする一種の家元制度が成立した。15代片桐貞泰は井沢宗達に伝授を受けている。現在は分派して石州流茶道宗家(一般財団法人高林庵,大和郡山市)と茶道石州流宗家(奈良市)という二つの宗家が存在する。

一方、長男の下條信隆(1624年 - 1716年)は石州の庶子で、1000石の旗本として取り立てられた。代々父子相伝で伝えられてきたが、石州から数えて7代目の片桐宗猿(1774年 - 1864年)の時に梶宗龍に伝授される。宗猿までは茶道の他に、華道盆石も伝わっていたが分流した。梶宗龍より維新後に磯貝宗和(1854年 - 1940年)に茶道が伝えられて東京で広められた。この流れを石州流宗猿系と称する。さらに分派がすすみ、石州流片桐宗猿派と称する2派に伝えられている。

石州の弟片桐貞晴は、3000石の旗本として取り立てられた。子孫の片桐宗幽が茶人として名を残すが、その後は茶系譜は伝えられていない。
藤林宗源の流れ

藤林宗源(1608年 - 1695年)は石州の側近で、後に小泉藩の家老となった人物で、石州とともに桑山宗仙に師事していた弟弟子にあたる。石州とほぼ同世代ではあるが、石州没後も20年以上長生きして、石州流の初期伝播に大きな功績がある。藤林流あるいは宗源派とも。

藤林宗源の系譜は片桐家の家臣で伝承され、江戸中期に大坂鉄砲組与力の本庄宗敬に伝授された。以来、本庄家を家元として現在に至っている。この流れは特に古石州流ともいう。これは、片桐本家の8代小泉藩主貞信江戸千家の茶風を取り入れて「新石州流」を名乗ったことに対抗したものと伝えられる。

藤林宗源の門人に片桐家の家臣で大西閑斎という人物があり、石州の没後に大坂で茶湯指南をしていた。大口樵翁(1689年 - 1764年)は閑斎の門下に入って婿となったが、破門されて独立した。この流れを大口派と称する。

大口樵翁門下の林津南が鳥取藩茶道方となって以来、林家が代々この地で大口派を伝えてきた。幕末に林常甫が小川幸逸(? - 1910年)に伝授したのが現在の大口派の源である。鳥取では維新後に、小川幸逸の門下の古田貞が鳥取技芸女学校(現・鳥取敬愛高等学校)を設立し、教科として教えたことにより広まった。また、同じく幸逸門下の戸田宗掬は京都に大口派を伝え、これが次いで大阪に伝わった。さらに幸逸門下の前田良太郎の系譜が、東京や関西に伝わっている。秋田にも関西から大口派が伝わっている。現在は大徳寺芳春院の住職が家元として継承されている。
清水動閑の流れ

清水動閑(1614年 - 1691年)は、仙台藩伊達政宗の茶道頭をつとめた清水道閑の孫にあたり、茶道頭を世襲して道閑・道漢と名乗ったあと、仙台藩4代藩主伊達綱村より動閑と名付けられた。動閑は綱村の命により石州に入門し、相伝を受けて仙台に戻った。この流れを汲む流派を一般に清水派と称する。

動閑は弟子の馬場道斎(1662年 - 1737年)を改姓させ、3世清水道竿として茶道頭を継がせた。道竿は綱村の命により、石州の高弟でもあった松浦鎮信や藤林宗源にも伝授を受けている。以来代々、茶道頭として仙台藩に仕え、維新後も伝承されている。一方で動閑の実子である清水快閑(1651年 - 1716年)は医業を生業としていたが、その後代々伊達家奥向きの茶道を務めて、現在は石州清水流として伝承されている。すなわち、藩の公式な茶湯については道竿家が務め、快閑家の代々は道竿家より伝授を受けた上で奥向きの茶湯を務めてきた。

これらの経緯から、現在でも宮城県を中心とする旧仙台藩領内では清水派の茶道教室が多く、東北放送のカルチャーセンターでは千家・裏千家・清水派に加え、清水派と関わりが深い大日本茶道学会が講座を開いている。また伊達政宗の命日である5月24日瑞鳳殿で献茶式を行う他[1]仙台・青葉まつりでの茶会など伊達家と関わりのあるイベントに参加している[2]

清水道竿家は仙台藩茶道頭として、参勤交代の折には江戸詰めになり、そのため旗本や諸藩にも清水派が伝播することになった。3世清水道竿門下の斎藤頼母(1670年 - 1716年)は5000石の旗本で、現在各地の清水派に連なる要の人物である。高松藩では5代藩主松平頼恭の頃に、斎藤頼母に学んだ片山五左衛門によって清水派がもたらされ、明治期になってさらに群馬に伝わった。土佐藩でも8代藩主山内豊敷の時期に斎藤頼母に学んだ高畠小平次によってもたらされた流れと、6世清水道看門下の中川道茂に学んだ茶堂の上村為山による流れとが合流して現代に伝わっている。これはさらに明治期になって広島、次いで東京や熊本に伝わった。一方水戸藩では、6代藩主徳川治保の時期に4世清水道簡に学んだ田中素白によって清水派がもたらされ、鎮信流が流入しながら現代に伝わっている。

他に、東京に3世清水道竿門下の谷村三育を初代として、幕府数奇屋組頭を代々世襲し谷村家で伝承された嘉順派が伝わっている。9代家元森田嘉順は23年2月に元職を辞任し、現在は流儀事務連絡所が一括取扱を代行する。特異なものとしては、はじめ古石州流、その後清水派の野崎兎園に学んだ浅田宗恭の流れや、その門人で井澤宗達(1891年 - 1972年)の流れなども清水派から派生したものと言える。特に井澤宗達の流れは片桐宗家に伝えられている。
野村休盛の流れ

野村休盛(1642年 - 1711年)は代々徳川将軍家の茶道組頭を務める家の出身で、将軍家の茶道が遠州流から石州流に変わったことから石州に入門したと考えられている。江戸後期になって、野村家にも清水派が取り入れられたとされる。この流れを汲む流派が野村派である。数寄屋頭の伊佐家により広く伝えられた怡渓派(後述)と異なり、茶道組頭の野村家による伝播は多くない。

秋田藩では、5代藩主佐竹義峯が野村休盛英勝に伝授を受けてから、野村派が行われるようになった。維新後、佐竹家御用商人だった菅原新五郎の高弟の成瀬峯雲が東京で伝授したことにより、成瀬派、林泉寺派、古閑堂派などに分派した。これ以外に野村派は新潟にも伝わっている。
怡渓宗悦の流れ

怡渓宗悦(1644年 - 1714年)は大徳寺253世に就いたあと、江戸に帰って広尾祥雲寺や品川東海寺にあった高僧である。藤林宗源の没後、江戸において『石州流三百ヶ条註解』を著して、石州流を諸国へ伝播する中心的な役割を果たした。この流れを汲む流派を一般に怡渓派と称する。初代伊佐幸琢(1684年 - 1745年)は怡渓宗悦より皆伝を受けた高弟で、以後5代にわたって幕府の御数寄屋頭となり怡渓派を伝える。

越後新発田藩では、4代藩主溝口重雄が怡渓宗悦に茶の湯を学んで以来怡渓派で、8代藩主直養の頃からは伊佐家の代々から伝授を受けた「御茶道」がいた。特に10代藩主直諒は茶道に傾倒し、奥伝を受けて自ら越後怡渓派を名乗るほどであった。このとき奥伝を伝えたのが阿部休巴(1748年 - 1853年)で、この系譜にあるのが現在の茶道石州流怡渓会となっている。

会津藩は寛永20年(1643年)に保科正之が入封してから石州流であるが、孫の3代藩主松平正容が家臣の飯束林清(1677年 - 1751年)を怡渓宗悦に入門させ、伝授を得て会津怡渓派と称するようになった。幕末以降は武家出身で薬種商を営んでいた森川家が民間への伝承の中心となっており、千少庵によると伝えられる茶室「麟閣」を移築して兵火から免れさせるなどしている。


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