石川達三
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石川 達三
(いしかわ たつぞう)
1954年
誕生1905年7月2日
日本秋田県平鹿郡横手町
(現・横手市
死没 (1985-01-31) 1985年1月31日(79歳没)
日本東京都目黒区中目黒 東京共済病院
墓地神奈川県平塚市那由侘の里
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴早稲田大学英文科中退
活動期間1931年 - 1985年
ジャンル小説
代表作『蒼氓』(1935年)
生きてゐる兵隊』(1938年)
風にそよぐ葦』(1950年 - 1951年)
四十八歳の抵抗』(1956年)
人間の壁』(1959年)
青春の蹉跌』(1968年)
主な受賞歴芥川龍之介賞(1935年)
文藝春秋読者賞(1964年)
菊池寛賞(1969年)
デビュー作『最近南米往来記』(1931年)
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石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年明治38年〉7月2日 - 1985年昭和60年〉1月31日)は、日本小説家。社会性の濃い風俗小説の先駆者で、『蒼氓』により第1回芥川賞受賞。華中従軍から得た『生きてゐる兵隊』は発禁処分を受けた。戦後は、新聞小説や社会における個人の生活、愛、結婚をテーマにした作品でベストセラーを連発。書名のいくつかは流行語にもなった。記録的手法に拠る問題意識の明確な作風が特徴[1]。社会的・文壇的活動も活発で、日本ペンクラブ会長、日本文芸家協会理事長、日本文芸著作権保護同盟会長、アジア・アフリカ作家会議東京大会会長などを務めた。日本芸術院会員。
経歴

秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)に父石川祐助、母ウンの三男として生まれる(兄弟妹は7人、のち異母弟妹4人)[2]。父祐助は南部藩祐筆を務めた儀平の四男で秋田県立横手中学校の英語科教員、母ウンは仙北郡角館町素封家栗原氏の出身だった[2]。父方の伯父に石川伍一がいる[3]

父の転勤や転職に伴って、2歳の時(1908年秋田市楢山本新町上丁35番地に、7歳の時(1912年東京府荏原郡大井町(現東京都品川区)に、同年9月岡山県上房郡高梁町(現高梁市)に移った[4]1914年、9歳で母を亡くし、東京の叔父石川六郎の家に預けられたが、1915年に父が再婚し、後妻せいに育てられる[4][注 1]。小学校を首席で卒業し、東京府立一中を受験したが不合格で、高等小学校に1年通学し、1919年父が教頭をしていた岡山県立高梁中学校に入学[5]。3年の時、父の転任に伴い、岡山市私立関西中学校4年に編入し卒業、第六高等学校を受験するも不合格[5]。1年間の受験生活の間に、島崎藤村ゾラアナトール・フランスなどの作品を読む[5]1925年、上京し早稲田大学第二高等学院に入学、級友間の同人誌『薔薇盗人』に小説を書いたり、『大阪朝日新聞』の懸賞小説に応募したり、『山陽新報』に持ち込んだりする[6]1926年には『山陽新報』に「寂しかったイエスの死」が掲載され、これが活字になった最初の作品となった[7]。この頃経済的に行き詰り、学業を断念してフィリピン満洲に縁故を頼って渡ろうとしていたところ、同年『大阪朝日新聞』に「幸福」(原題「幸不幸」)が当選し200円の賞金が入ったので[8][注 2]1927年早稲田大学文学部英文科に進むも、学資が続かず1年で中退[9]。国民時論社に就職し、電気業界誌『国民時論』の編集に携わる[10]。生活上の基盤を得て、いよいよ小説家になる志を高め、各社に創作を持ち込むも上手くいかなかった[5]

1930年3月、政府補助単独移民として移民船でブラジルに渡航。これは、移民取扱会社南洋興業に兄の友人が勤めていた縁によるもので、本来は夫婦や家族持ちでなければ渡航できないところ特別に許可を得た[11]。渡航に際して石川は、旅費の足しを得るために、帰国後「体験記」のようなものを書く約束で国民持論社を一旦退職した形をとり退職金600円を手にした[12]。米良功所有のサント・アントニオ農場に約1か月、のち「上地旅館」に止宿、日本人農場に滞在し、8月に帰国[4]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}国民時論社に復職[要出典]。1931年6月『新早稲田文学』の同人となり、幾つかの短篇を発表した[13]。その後、国民時論社を再度退職し、嘱託として働く[要出典]。

1935年4月、ブラジルの農場での体験を元に、移民を余儀なくされた人々の惨めさを描いた「蒼氓」を同人誌『星座』創刊号に発表[14]。これが素材の新しさとリアリズムの本流をゆく堅実な手法とで選考委員に認められ[15]、8月第1回芥川龍之介賞に当選。新聞には「無名作家」と報じられた[16]。10月には改造社より『蒼氓』が刊行された。次いで、水道用貯水池建設のために湖底に沈む小河内村を取材し、1937年9月「日蔭の村」を『新潮』に発表(10月新潮社刊)[17]。「調べた芸術」として文壇に話題を呼び、ルポルタージュ的手法を用いた一種の社会小説として評価された[18]。この間の1936年11月には梶原代志子と結婚し、翌年8月には長女希衣子が誕生している[4]1937年12月、中央公論の特派員として、日中戦争の戦場中支方面に出発。南京事件から数週間後の南京に翌年1月まで滞在し、他に上海周辺を歩いた[19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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