石川理紀之助
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石川 理紀之助

石川 理紀之助(いしかわ りきのすけ、1845年4月1日弘化2年2月25日〉 - 1915年大正4年〉9月8日)は、秋田県潟上市の篤農家、明治から大正期の農業指導者[1]。秋田県種苗交換会の先覚者。生涯を農村の更生、農家の救済、農業の振興のために捧げた。
人物

理紀之助は、毎朝3時に掛け板(かけいた)を打ち鳴らして村人たちを眠りから起こし、まだ夜が明けきらないうちから農事に専念し、困窮した村の再建に尽くした。こんな逸話が残っている。ある猛吹雪の朝、理紀之助がいつものように午前3時に掛け板を鳴らし、雪まみれになって家に入ると、妻が言った。「吹雪の朝に掛け板を打ったところで誰にも聞こえない。ましてこの寒さでは誰も起きて仕事などしないだろう」と。すると、理紀之助はこう答えたという。「そうかもしれないが、この村の人々のためだけに掛け板を鳴らしているのではない。ここから500里離れた九州の人々にも、500年後に生まれる人々にも聞こえるように打っているのだ」と。
生涯

出羽国秋田郡小泉村(現 秋田県秋田市金足小泉)の奈良周喜治・トクの三男。旧姓は奈良、初名は力之助、雅号は貞直と草木谷。石川理紀之助は奈良家の分家の生まれ。奈良家の宗家は金足村の豪農で、邸宅は秋田県立博物館の付属施設【旧奈良家住宅】として、1965年5月29日に国の重要文化財に指定されている。

奈良家宗家には江戸時代の文化人である菅江真澄が逗留している。石川理紀之助も菅江真澄が残した文章を収集していた。理紀之助は、1898年に自らの蔵書を焼失したことから、郷土の古書を活字にして残そうと出版を計画。理紀之助が編輯して発行した『秋田のむかし(巻一) 』(1898年)には菅江真澄が書き写した『房住山昔物語』が転載されている。真澄による書写本とはいえ、真澄の著作が活字になったのは、これが最初である。

1849年、5歳の頃、祖父喜一郎(号は甦堂、両湖)より文字を習う。

1853年、9歳、手習師匠の神谷与市左衛門に就き、習字を学ぶ。発句の会で「硯にも酒を飲まする寒さかな 力之助」という句を作って一座の人を驚かしたという逸話が残っている。この発句は、寒中の硯水が凍るのを防ぐため、祖父が硯に酒を混ぜて墨をするのを知っていたからである。

1854年、10歳、隣村高岡村の奈良三治の寺子屋に通った。

1855年、11歳、奈良家宗家に2回ばかり来ている菅江真澄の墓を秋田郡寺内村(現 秋田市寺内)に詣でて発見。詣でた日がちょうど真澄の27回忌の命日あたる7月19日で、その偶然に感激して、嬉しさのあまり、思わず「なき人を 慕う心や かよいけん 思わず今日の 時にあうとは」の和歌を吟じている。この和歌が理紀之助の詠歌の最初である。

1858年、14歳、同村の奈良家宗家主人の奈良喜兵衞に若勢奉公する。(「年少なれど15歳で若勢20余人の若勢頭となる」との従来の説は、奈良家宗家の田地規模約百町歩(10万刈)のうち手作りは2町歩であることから、若勢2?3人の若勢頭であったと見直されている。)

1859年、15歳、この頃より早起きの習慣を養い、生涯午前2時前後の起床をなす。

1860年、16歳、秋田三大歌人(三歌聖、三歌仙)の一人、秋田城下西善寺の蓮阿上人に就き、和歌を学ぶ。1年半の間に約1万5千首の和歌の添削を受け、進境を示す。

1861年、17歳、蓮阿上人[2]から貞直の雅号を授けられる。娘の婿にと見込んでいた宗家主人の奈良喜兵衞は、力之助の歌詠みや学問をやめさせようとして、留守中に歌稿と書物の一切を焼き捨てる。

1863年、19歳、自分の意思なく奈良家宗家の娘イシの婿として結婚させられる。一説に宗家の長男岩治の養弟となる。しかしながら、奈良家の分家法に従って42歳まで働いて、後に12?13町歩(一説に1万刈)の田地を貰った分家ではたいしたことはない。好きな学問を修め、歌道を究めたいと考え、江戸への遊学を願ったが許されなかった。

力之助はこのままの人生を送るにはとりかえしのつかないものになってしまうことを感じ、奈良家宗家を脱し江戸を目指して家出することにした。力之助は蓮阿上人に決意を語り、適当な奉公口を願い出た。

蓮阿上人は、京都の歌人大田垣蓮月に和歌を学んで蓮阿の号を賜り、京都の遠州公御流大森家茶道(現在の茶道玉川遠州流)4代家元大森宗震に閑院宮家と有栖川宮家の茶道を学んだ人物である[3]

力之助の決意に驚いた蓮阿上人は、やむを得ないと見てとると、早速知り合いの上肴町の橋本治兵衛と川口善助の二人に相談した。橋本治兵衛は、秋田市の橋本家に入婿した理紀之助の祖父奈良喜一郎の弟 奈良源之助である。三人は相談の結果、豪商で奉公人に暇を見て技芸を磨かせる家風の雄勝郡川連村(現 湯沢市川連町)の高橋利兵衛家[4]を選び、7代高橋利兵衛への丁寧な依頼の書面をしたためた[5]

川連村を目指した力之助は、二朱の小遣い銭を使い果たしていた。途中、増田町の曹洞宗満福寺の第25世徳應禅孝大和尚に逢った。聴かれるままに話すと、禅孝大和尚は、「書面の通り、和歌の勉強ならば川連村の久保という部落に高橋利兵衛という偉い方がいるからその方に相談せよ」とのことで、力之助は増田町から川連村までの7km(実測)を歩いて高橋利兵衛を訪ねた。利兵衛は蓮阿上人らの書状を見て信用し、まずは裏地の蔬菜(そさい)畑や養鶏などの世話をさせることにした。利兵衛は力之助の読書と和歌の勉学に感心し、「和歌の勉強ならば江戸まで行く必要はない。隣部落の野村に小野小町の再来といわれている後藤逸女[6]という和歌の大家がいるから、その方を訪ねて学べ」と教示した。後藤逸女は長男誕生の3年後に夫が亡くなり、秋田藩の江戸藩邸に出仕するも父の発病で一切の名利栄達を捨てて帰秋。2?4年後に父を亡くし、精神障害の長男と二人の孫、体の弱い母の一家5人の大黒柱として農作業に従事することに一生をささげ、苦しい生活にあっても和歌を続けることに自分の生きる喜びを見い出して生活をしている人生の達人であった。


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