石川準十郎
[Wikipedia|▼Menu]

この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。

出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2017年8月)


独立記事作成の目安を満たしていないおそれがあります。(2017年8月)


石川 準十郎(いしかわ じゅんじゅうろう、1899年明治32年)6月1日 - 1980年昭和55年)2月22日)は、日本の政治活動家。戦前・戦後にかけ、一貫して国家社会主義者として活動した[要出典]。
目次

1 人物

2 年譜

3 著作物

3.1 著書

3.2 訳書


人物

岩手県盛岡近郊に生まれた石川は、日清戦争の戦災者の関係者として成長し、兄・石川金次郎の援助の下、早稲田大学政経学部に入学。在学中に高畠素之の知遇を得、以後、高畠門下として国家社会主義運動に没頭した。高畠の死後も国家社会主義理論を発展させ、1931年に赤松克麿、津久井龍雄らとともに日本社会主義研究所を創設、『日本社会主義』『国家社会主義』を刊行。次いで日本主義に傾倒した赤松らと袂を分かち、大日本国家社会党を設立。党首となる。同党は右翼政党としては珍らしく、大日本労働組合協議会なる労働組合を支持母体としていた。後、『満州新聞』の顧問として渡満。北鮮にて敗戦を迎える。占領軍に公職追放を受け、主として右翼の論客の一人として活動した。1949年の公職追放解除の後、早稲田大学政経学部の教授に就任し、1962年まで務めた。石川の与えた影響は決して大きいものではなく、常に孤立的活動を余儀なくされていたが、日本の右翼、国家主義、社会主義などを論ずるに於いては、洩らすことのできない一人に数えられる[要出典]。

石川は日本に最も早くナチスを紹介した人物として知られている。彼は人口稠密(ちゅうみつ)、領土狭小なる日本やドイツが、アングロサクソンの独善的観点から作られた世界秩序を克服すべく、第二次世界大戦が引き起こされるのは当然であると考えた。その観点からも、日中戦争は不賛成となるが、対米戦争(石川によれば大東亜戦争)は賛成となる。石川のナチス分析もこのような、ある種の社会主義的進歩史観、乃至政治観からなされており、そこには神権主義的天皇観や日本の軍部に対する盲目的追従の生まれる余地はなかった[要出典]。
年譜

この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年8月)


1899年(明治32年) - 岩手県岩手郡玉山村大字日戸(現・盛岡市日戸)の比較的裕福な家に生まれる。

1909年(明治42年) - 準十郎らを盛岡市の学校に通わせるため、一家で盛岡市油町に転住。

1914年(大正3年) - 第一次世界大戦(欧洲大戦)勃発。

1917年(大正6年) - ロシア革命勃発。

1918年(大正7年) - 盛岡中学を卒業。

1919年(大正8年) - 早稲田大学(予科)に入学。12月、兄石川金次郎、牧民会(社会思想研究団体)を結成、これに参加する。(大正9年に結成された日本社会主義同盟の東北支部となる)兄金次郎を介して高畠素之を知り、これに師事し、本格的な社会経済研究を始める。大学では荒垣秀雄らと早稲田大学「新聞学会」、『早稲田大学新聞』を創設。荒垣とともに石川三四郎安部磯雄、高畠素之らを招き、早稲田大学に行われていた初期「読書会」を牽引する。

1923年(大正12年) - 12月、牧民会の解散。

1924年(大正13年) - 早稲田大学政経学部を卒業。9-12月、高畠素之の主宰する『急進』でマルクス主義国家論を批判する。

1925年(大正14年) - 『マルクス経済学入門』を訳述出版。

1926年(大正15年) - 『機能的社会国家論』を訳述出版。

1927年(昭和2年) - 『マルキシズムの根柢』を訳述出版。

1928年(昭和3年) - 12月、高畠素之の死に立ち会う。

1929年(昭和4年) - 2月、『マルキシズム認識論』を翻訳出版。6月、津久井龍雄らを中心に第二次『急進』が創刊される。

1930年(昭和5年) - 12月、第二次『急進』廃刊。

1931年(昭和6年) - 9月、満州事変の勃発。社会民衆党赤松克麿や津久井龍雄らで日本社会主義研究所を結成。10月、同研究所の機関誌として『日本社会主義』を創刊。

1932年(昭和7年) - 1月17日、下中弥三郎ら日本国民社会党組織準備会を結成。19?20日、社会民衆党党大会にて赤松克麿が国家社会主義路線を主張。3月、「日本社会主義研究所パンフレット」第3輯として『マルクス社会主義より国家社会主義へ』を発行。4月5-18日、日本国家社会主義学盟を結成。15日、赤松克麿ら国家社会主義新党準備会を結成。5月29日、赤松派と下中派が協同して国民日本党を結成するも決裂。赤松派は日本国家社会党を、下中派は新日本国民同盟を結成。6月、『日本社会主義』を『国家社会主義』と改題。12月、日本社会主義研究所と日本国家社会主義学盟を合体改組して、日本国家社会主義学盟(前記学盟と同名。区別して新日本国家社会主義学盟と呼ぶ場合もある)を結成。

1933年(昭和8年) - 6月、佐野学鍋山貞親、獄中から転向声明。7月、国家社会党から赤松派が離党し、党が分裂。12月、日本国家社会党準備会の結成。

1934年(昭和9年) - 3月、大日本国家社会党を結成。党首(総理)となる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:11 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef