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「石川准」、「いしかわじゅん」、「石川潤 (美術家)」、あるいは「石川純」とは別人です。
石川 淳
(いしかわ じゅん)
1956年ごろ
(『週刊朝日』1956年11月11日号より)
誕生1899年3月7日
日本・東京市浅草区(現・東京都台東区)
死没 (1987-12-29) 1987年12月29日(88歳没)
日本・東京都新宿区
墓地上川霊園
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
教育学士
最終学歴慶應義塾大学予科
東京外国語学校
活動期間1935年 - 1987年
ジャンル小説
文学活動無頼派(新戯作派)
代表作『普賢』(1936年)
『焼跡のイエス』(1946年)
『処女懐胎』(1948年)
『紫苑物語』(1956年)
『至福千年』(1967年)
『狂風記』(1980年)
主な受賞歴芥川龍之介賞(1937年)
芸術選奨(1957年)
日本芸術院賞(1961年)
読売文学賞(1981年)
朝日賞(1982年)
デビュー作『佳人』(1935年)
『佳人』以前のいくつかの翻訳作品もある。
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石川 淳(いしかわ じゅん、1899年(明治32年)3月7日 - 1987年(昭和62年)12月29日)は、日本の小説家[1]・文芸評論家・翻訳家。東京府浅草区生まれ。無頼派、独自孤高の作家とも呼ばれ、エッセイでは夷斎と号し親しまれた。本名:淳(きよし)。日本芸術院会員。
祖父から論語の素読を受け、森?外に熱中して文学を志す。東京外国語学校仏語科卒。『普賢』(1936年)で芥川賞受賞。『マルスの歌』(1938年)は反軍国調の廉で発禁処分を受けた。
寓意的作品が多く、戦後は『焼跡のイエス』(1946年)を書き、太宰治・坂口安吾とともに新戯作派・無頼派として人気を集めたが、次第に東洋的境地で健筆を振るった。和漢洋にわたる博識を発揮し、評論・エッセイにも佳品を残した。 東京市浅草区浅草三好町(現在の東京都台東区蔵前)にて銀行家で東京市会議員、共同銀行取締役の斯波厚(1869年 - 1931年)[1] 1921年(大正10年)7月から11月まで横須賀海軍砲術学校フランス語講師、10月から1922年(大正11年)6月までフランス『ル・タン』の通信事務員。7月から1923年(大正12年)3月まで海軍軍令部に勤務。東京外国語学校の同窓生を中心として野島辰次、高橋邦太郎らと同人誌『現代文学』創刊に参加し、「鬼火」「ある午後の風景」などの小説の習作を発表。このころの石川淳について小島政二郎は「アナトール・フランスばりの形式美の追求者」と評している[2]。1922年にポール・クローデルの歓迎会や講演会に参加。1923年、アナトール・フランス『赤い百合』の翻訳刊行。1923年9月から1924年(大正13年)3月まで慶應義塾仏語会にて仏語講師。関東大震災で山内義雄の家に避難し、ここで1924年にアンドレ・ジッドの『背徳者』翻訳刊行。 1924年4月、旧制福岡高等学校(新制九州大学教養部の前身)の仏語講師として福岡に赴任。年俸は1600円(2006年の貨幣価値で800万円ほど)であった。福岡市東養巴町に家庭を持つ。教師時代の入学試験で「新聞紙」という作文の答案が、文系の志願者はすべてがジャーナリズムとしての新聞、理系の志願者はすべて用紙としての新聞の紙についてだったとエッセイに発表、作家花田清輝は自分はそのときの受験生だったと書いている。 1925年(大正14年)11月21日、文部省から派遣された法学博士・蜷川新の講演会がきっかけで学生運動が発生、関係していた社会科学研究会は治安維持法違反で解散させられる。石川も左翼学生に加担したとの理由で辞職を勧告され2学期かぎりで休職、1926年(大正15年)3月に正式に依願退職した。東京に戻った後は、放浪生活となり、アンドレ・ジッドの『法王庁の抜穴』などの翻訳をした他は、約10年間創作活動を休止する。 1933年から評論などの執筆を再開し、1935年(昭和10年)の『佳人』発表から創作も再開。1937年(昭和12年)、『普賢』で第4回芥川賞を受賞。その直後、1938年(昭和13年)の『文学界』1月号に発表した「マルスの歌」が反軍国調だとして1937年12月29日発禁処分を受け、編集責任者河上徹太郎とともに罰金刑に処せられたこともあって、戦時中は創作に制約を受け、森?外の史伝作品に新たな解釈を与えた『森?外』(1941年12月5日刊)、『文学大概』(1942年8月15日)などの評論や、江戸文学の研究に没頭し、この当時を自ら「江戸へ留学」していたと語っている[2]。1941年(昭和16年)11月、坂口安吾と識る[3]。1945年(昭和20年)5月25日、空爆により被災、千葉県船橋市に転居[4]。厚生省の外郭団体に勤務し同和地区視察のために夏から秋にかけ北陸、近畿、四国を出張旅行、この間に日本の敗戰となった。 戦後から旺盛な活動を再開、「焼跡のイエス」「処女懐胎」などの作品を発表し、「一切の権威を認めず、裸の生をこの世の風にさらして自由を求めてさまよう[2]」姿勢から、太宰治、坂口安吾、織田作之助らとともに「無頼派」と呼ばれた。1950年(昭和25年)から『新潮』に連載した「夷齋筆談」などエッセイも多く執筆。その時期から安部公房が師事し、安部の初期作品集『壁』に序文を寄せている。1963年、日本芸術院会員に選出。1967年(昭和42年)に文化大革命が本格化した際には、三島由紀夫・川端康成・安部公房と連名で共同声明「文化大革命に関し、学問芸術の自律性を擁護するアピール」を発表し、文革を批判した。
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