凡例石川昭光
石川昭光(東東洋筆、個人蔵)
時代戦国時代 - 江戸時代前期
生誕天文19年3月5日(1550年3月22日)
死没元和8年7月10日(1622年8月16日)
改名伊達小二郎→石川親宗→昭光
別名小二郎(通称)
墓所宮城県角田市 長泉寺
官位従五位下佐衛門太夫 大和守
主君伊達政宗
氏族伊達氏→角田石川家
父母父:伊達晴宗、母:久保姫(岩城重隆娘)
養父:石川晴光
兄弟岩城親隆、伊達輝宗、留守政景、昭光、
国分盛重、杉目直宗
妻照子(石川晴光長女)
子義宗、久五郎、小川隆尚(小川隆直の養子)、大塚隆重室、蓬田正次室
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石川 昭光(いしかわ あきみつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。陸奥仙台藩重臣。角田石川家初代当主。 天文19年(1550年)、伊達晴宗の四男として羽州長井荘(現在の山形県米沢市)において誕生。幼名は小二郎。小字藤四郎。 永禄6年(1563年)10月、陸奥国石川郡三芦城主・石川晴光の養嗣子となる。晴光の娘・照子を娶り、小二郎親宗(ちかむね、「宗」は実家・伊達氏の通字により)と改称する。この時、伊達氏より佐藤信景以下6名が随従し石川氏家臣となる。 永禄11年(1568年)3月、養父・晴光の隠居に伴い家跡を相続し、第25代石川家当主となる。 永禄13年(1570年)2月、上洛し室町幕府15代将軍・足利義昭に拝謁する。このとき、従五位下佐衛門太夫に任ぜられ、義昭から偏諱を賜い、昭光と改称する。 天正2年(1574年)、蘆名盛氏が佐竹義重と白川郡、石川郡の覇権、支配権をめぐって戦う。蘆名氏の支援を受けていた白河氏が佐竹氏に大敗し[1]同地を失うと、同年6月、石川晴光・昭光の三芦城への帰城が佐竹義重への服属によって実現、決定された[2]。『伊達治家記録』によれば、この年10月、実兄・伊達輝宗から昭光の帰城の御祝儀として、馬一匹、奥方には染物を贈呈される。閏11月には、輝宗が昭光を含む関係諸家の調停に奔走して蘆名氏・白川氏と佐竹氏の講和が実現した[3]。 しかし、田村清顕が去る天正2年1月(1573年12月)より須賀川勢(二階堂氏)の手切れを受けて[4] 二階堂領を攻め、さらに勢いに乗って蘆名・白川領まで攻め入っていた。清顕は正室が輝宗と争っていた相馬盛胤の妹ということもあって、輝宗の調停に応ずることはなかった。 天正3年(1575年)9月、蘆名氏は安積郡西部の大槻(郡山市大槻町)を田村勢に攻められ、10月には蘆名勢が北部の久保田(郡山市富久山町)を攻め返した。輝宗は石川氏と連携して田村氏・相馬氏の牽制を図るが、石川氏は蘆名氏を最たる脅威として佐竹氏に従った[5]。石川氏がこのような態度をとった背景には昭光の養父・晴光が健在であり、その母が田村氏の出であった事も要因の一つと考えられる。 天正4年(1576年)、田村清顕は佐竹氏と共に蘆名方の長沼城を攻めている[6]。ところが、この年の9月に入って田村清顕が突然佐竹氏と同盟を破棄して蘆名氏と同盟を結び、翌天正5年(1577年)には蘆名・田村連合軍が石川領を制圧して、晴光が黒川城に一時連行されている[7]。 天正5年(1577年)4月、石川氏の一族・浅川義純が佐竹氏に反逆するが失敗し、居城の浅川城を追われたため、浅川城は昭光に預けられ、城代として矢吹光頼が入った。天正6年(1578年)になるとその浅川城に次々と攻撃が加えられた。3月に白川勢、6月?7月には田村勢が攻勢をかけ、浅川城で防戦に奔走した。この間に三芦城が蘆名氏に奪われ、石川氏も蘆名氏を筆頭とする佐竹・二階堂・白川連合に服属することとなった。一方の田村氏は伊達氏との繋がりを深めてこの連合から離脱していった。これにより南奥州情勢は蘆名・白川・二階堂・石川・佐竹勢と伊達・田村連合の戦いに集約されることになる。 この連合同士の対決を前に、昭光は蘆名氏から三芦城の返還が許された。同時に浅川義純父子も浅川城に復帰している。
生涯
誕生と家督相続