いしかわ れい
石川 冷
本名石川 良平(いしかわ りょうへい、出生名)
齋藤 良平(さいとう りょうへい、婚姻時)
別名義石川 鳳堂(いしかわ ほうどう)
生年月日 (1901-01-25) 1901年1月25日
没年月日不詳年
出生地 日本 東京府東京市本所区業平(現在の東京都墨田区)
職業俳優
ジャンル新派、劇映画(時代劇・現代劇、サイレント映画・トーキー)、テレビドラマ
活動期間1914年 - 1973年
配偶者斎藤 千代子
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石川 冷(いしかわ れい、1901年1月25日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2]。本名は石川 良平(いしかわ りょうへい)だが、婚姻後は齋藤 良平(さいとう - )と名乗った[1][2]。旧芸名は石川 鳳堂(いしかわ ほうどう)[1][2]。妻は舞踊家の藤間寿美枝
(本名は斎藤 千代子)である[1][2]。1901年(明治34年)1月25日、東京府東京市本所区業平(現在の東京都墨田区)に生まれる[1][2]。父親である杢平は人形師であった為、人形作りを手伝いながら、1914年(大正3年)に小学校を卒業[1]。卒業後は琴古流尺八を習い、石川鳳堂と名乗った[1]。
1920年(大正9年)、新派俳優の武田正憲(1890年 - 1962年)の門下となり、東京で初舞台を踏む[1][2]。1921年(大正10年)、小織桂一郎(1870年 - 1943年)の一座に入るが、1923年(大正12年)、女形修行の為に村田式部
に師事する[1]。ところが、直後の不況により舞台に見切りをつけ、1927年(昭和2年)2月、マキノ・プロダクション御室撮影所に入社し、多数の作品に出演[1][2]。1931年(昭和6年)10月にマキノ・プロダクションが解散した後は同年11月に松竹下加茂撮影所に移籍する[1][2]。1939年(昭和14年)には東宝へ転じ、戦争末期まで多数の作品に出演した[1][2]。戦後、東宝争議(1946年 - 1948年)の影響を受けて1947年(昭和22年)に誕生した新東宝に入社し、1961年(昭和36年)の新東宝倒産まで活躍[1][2]。その後はフリーとなって長く活躍していたが、1973年(昭和48年)に病を経て入院し、入院後は難聴のため引退した[1][2]。1979年(昭和54年)に発行された『日本映画俳優全集 男優篇』では、存命人物として東京都文京区本郷の連絡先が示されている[1]が、既に引退しており、以後の消息は不明である。没年不詳。
出演作品
映画
1932年
怪談 ゆうなぎ草紙(番太郎の熊蔵 役)
1933年
天一坊と伊賀亮(杢兵衛型神主 役)
蝙蝠の安さん
1934年
めをと大学
1935年
勤王飛脚(山脇忍 役)
かごや判官(長屋の住人 大工 役)
雪之丞変化 第二篇(声色屋 役)
1936年
千両小路(父さん 役)
1937年
花火の街(支那人劉 役)
故郷(庄屋 役)
夜の鳩(福寿し 役)
1938年
伊太八縞(能寺の次郎吉 役)
長曽禰虎徹(門人又七 役)
月下の若武者(浄六 役)
1939年
ロッパの大久保彦左衛門(魚屋B 役)
むかしの歌(点灯夫 役)
忠臣蔵 前篇(大工弟子 役)
忠臣蔵 後篇(大工弟子 役)
1940年
化粧雪(警官B 役)
続蛇姫様(床山の留公 役)
旅役者
1941年
白鷺(幇間 役)
阿波の踊子(でこ廻し 役)
川中島合戦(甚助 役)
1943年
伊那の勘太郎(小者 甚六 役)
1949年
鍋島怪猫伝(仲間 役)
小原庄助さん(世話人代表 役)
1950年
雪夫人絵図(宇津保館板前 役)
1951年
月が出た出た(箱屋常吉 役)
1952年
リルを探してくれないか 風の噂のリル
1954年
娘十六ジャズ祭り
1955年
番場の忠太郎(薬屋の源八 役)
1956年
女真珠王の復讐(小使 役)
1957年
桂小五郎と近藤勇 龍虎の決戦(田兵衛 役)
海の三等兵(百姓A 役)
関八州大利根の対決(百姓夫 役)
日米花嫁花婿取替合戦(お花の師匠 役)
妖婦 夜嵐お絹と天人お玉(番頭 役)
怪談累が渕(重助 役)
海女の戦慄(源助爺 役)
白蝋城の妖鬼(刺青師紋吉 役)
ひばりが丘の対決(外村浅吉 役)
1958年
天下の副将軍 水戸漫遊記(石屋の藤吉 役)
人形佐七捕物帖 浮世風呂の死美人(蔦重 役)
亡霊怪猫屋敷(佐平次 役)
1959年
怪談鏡ヶ淵(島野屋伝八 役)
東海道四谷怪談(金魚売りの声 役)
九十九本目の生娘(刑事浜田 役)
雷電(半右衛門 役)
続 雷電(半右衛門 役)
1960年
怪談海女幽霊(船頭久平 役)
地獄(刺青の老人 役)
蛇精の淫(下男・作造 役)