石川倉次
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いしかわ くらじ
石川 倉次
1936年(昭和11年)撮影
生誕 (1859-02-28) 1859年2月28日
遠江国浜松藩(現在の静岡県浜松市
死没 (1944-12-23) 1944年12月23日(85歳没)
国籍 日本
職業教育者
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石川 倉次(いしかわ くらじ、1859年2月28日安政6年1月26日[1][2]〉 - 1944年昭和19年〉12月23日)は、日本の教育者[3]ルイ・ブライユが考案した6点点字を基に日本語に翻案して全国を回り点字を広める等、今日の日本語点字の基礎を築き、「日本点字の父」といわれている[3][4]
生涯
浜松時代

1859年(安政6年)、浜松藩士の父・専七と母・ゑしの子として名残組屋敷(現在の浜松市中央区鹿谷町)に生まれる[5][6][7]。8歳から9歳の頃から手習いに通い、現在の高町にあった藩校・克明館に入学し、漢籍や西洋の砲術、英語を学んで、優秀な成績を修めていた[5][7]

当時、専七の勤める浜松藩は財政困窮や政局の行方に揺れており、妹ぎんを出産後は病気がちだった母ゑしの体調とともに、少年倉次の心配事となっていた[8]
鶴舞時代

1868年明治元年)9月、専七の主君である井上正直上総国に国替えされ(鶴舞藩)、石川一家も翌1869年(明治2年)5月に上総国鶴舞(現在の千葉県市原市鶴舞)へと移り住んだ[6][9]。倉次は12歳で鶴舞の藩校・克明館に入学したが、1872年(明治5年)の学制発布によって克明館は一時閉鎖となり、翌1873年(明治6年)に鶴舞小学校となった[9]。倉次は同校に学び1875年(明治8年)首席で卒業した[9]。成績優秀だった倉次は、鶴舞小学校卒業と同時に同校の助教として採用される[10]
小学校教員時代

1875年(明治8年)、倉次は千葉師範学校教員検定試験に合格した。[5]

千葉県上埴生郡水沼小学校に正式に小学校教員として勤めたが[5][10]、新聞社への転職を目指し退職し、上京する[10]。しかし、1878年(明治11年)、再び教師を志して千葉師範学校に編入学し、翌1879年(明治12年)に同校を卒業[11]、以後は南相馬郡鷲野谷小学校、千葉郡浜田小学校、長柄郡茂原小学校と、千葉県内の小学校を歴任している[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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