元ワンギャルの「石川瞳」あるいは女優・声優の「いしかわひとみ」とは別人です。
石川 ひとみ(いしかわ ひとみ、1959年〈昭和34年〉9月20日[1] - )は、日本の歌手、声優。本名、山田ひとみ(旧姓石川)。愛称はひっちゃん[2][3]。血液型はB型。
石川 ひとみ
出生名石川ひとみ
別名ひっちゃん
生誕 (1959-09-20) 1959年9月20日(64歳)
出身地 日本 愛知県海部郡美和町(現:あま市)
名古屋市西区生まれ
学歴名古屋短期大学付属高等学校(現:桜花学園高等学校)卒業
ジャンルアイドル歌謡曲
J-POP
職業歌手 、アイドル
担当楽器ボーカル
一五一会
活動期間1978年 - 1987年
1988年 -
レーベルキャニオン・レコード/NAVレコード
→ビクターエンタテインメント
→テイチクエンタテインメント
事務所ファーイーストカンパニー
共同作業者山田直毅(夫)
公式サイトHitomi Ishikawa Official Site:ただいま
名古屋市西区生まれ[4]。伊勢湾台風が東海地方に上陸する直前に誕生し、騒々しく台風が通過する中もすやすやと眠っていた[3]。生まれたばかりの頃は無数のしわに低い鼻、目も小さかったので「少しでも目鼻立ちがぱっちりするように」との 祈りを込めて、ひとみと名付けられたという[2]。2歳の時に愛知県海部郡美和町に転居した[3]。
幼少期はおてんばで、七宝幼稚園に通うと近所の男児と田の中で大喧嘩して泥だらけで帰宅したこともあった。正則小学校の6年生でソフトボールに熱中してエースで4番を務めた。スポーツ以外は幼稚園頃からピアノを始め、小学生の頃に大流行していた「黒猫のタンゴ」のレコード[注 1]をかけながら自宅などで歌ったのがきっかけで音楽に目覚めた[4]。
小学6年生(当時)の1972年3月19日にCBCテレビののど自慢番組『どんぐり音楽会』で南沙織の「潮風のメロディ」を歌って準優勝し[注釈 1]、初めてTV番組に出演した[2][5][3]。美和中学校で軟式テニス部に所属してダブルスで前衛を務めた[2][3]。当時から目の瞳が大きくて愛らしく、男子生徒らから人気が高かった[3]。
名古屋短期大学付属高等学校に入学[2]。街中の広告で東京音楽学院名古屋校を知り、合格して高校1年生の1975年11月から通い始める[2]。しかしその後、十二指腸潰瘍で入院したり、月謝の値上げもあって両親から「お茶とかお花とか将来役立つことをしなさい」と言われるなどあり、だんだん行かなくなって、本人曰く「しぶしぶ」という形で半年ほどで辞めることになる[3][6]。その後は、多くの生徒と同じくエスカレーター式に付属の短大に進むつもりだったという[4]。
しかし、高校2年生の11月頃に渡辺プロダクションの新人歌手オーディションを勧められ、軽い気持ちで受けたところ合格[3]。そして名古屋に来たディレクターに勧められて出場した[3]フジテレビ系オーディション番組『君こそスターだ!』[注釈 2]でチャンピオンとなる。番組のオーディション1週目で岩崎宏美の「ドリーム」を歌うが、歌詞を間違えて「ごめんなさい」と叫び収録が中断された[3]。しかし「歌詞を間違えた出場者は君が初めてだよ」と逆に審査員に好感を持たれ[2][3]、その後『君こそスターだ!』では7週勝ち抜いてチャンピオンになった[6]。
この結果を受けた渡辺プロから「まだ歌手になれるかは分からないけどうちの新人班に所属してはどうか」と打診された[4]。上京になるため両親から反対されたが、「大学進学したと思って4年間だけ東京で頑張らせてほしい」と説得[4]。親の許可を得て渡辺プロに所属して活動することになり[6]、1978年3月、高校卒業の3日後に上京して渡辺プロの寮に入寮。同時期の入寮者に桑江知子、松原みきがいる[6]。寮生活では、休日に上記の2人に加えて先輩デュオのザ・リリーズなどとよく立川市でボウリングを楽しんだ[4]。 1978年5月25日に、キャニオン・レコードのNAVレコードから「右向け右」でアイドル歌手としてデビューすると、全国58大学で構成する全国ビューティ・オール学生協会から「'78マスコット・ガール」に選ばれるなど、デビュー当時から容姿と歌唱力が高く評価されて大学生を中心に大きく支持を得る。男性誌を中心に水着姿のグラビア撮影が多かったが、生後6日で体験した伊勢湾台風も影響して[7]水を恐れておりデビュー前は水着を1着も持っていなかった。 1979年から1982年までNHKの人形劇『プリンプリン物語』で声優として主役のプリンセス・プリンプリンの声を担当し[8]、同局の歌番組『レッツゴーヤング』では太川陽介と司会を務めた。
アイドルデビュー?ブレイク