フリーアナウンサーの「石川小百合」とは別人です。
石川 さゆり
2023年 第36回東京国際映画祭にて
基本情報
出生名石川 絹代(いしかわ きぬよ)
別名kinuyo
生誕 (1958-01-30) 1958年1月30日(66歳)[1]
出身地 日本・熊本県飽託郡飽田村
(後の飽田町、現・熊本市南区)
学歴堀越高等学校卒業
ジャンル演歌・歌謡曲・J-POP
職業歌手・女優
担当楽器ボーカル
活動期間1973年 -
レーベル日本コロムビア
(1973年 - 1993年)
ポニーキャニオン
(1993年 - 1999年)
テイチクエンタテインメント
(2000年 - 現在)
事務所ホリプロ(1973年 - 1997年)
さゆり音楽舎(1997年 - 現在)
公式サイト ⇒石川さゆりウェブサイト
島倉千代子
石川 さゆり(いしかわ さゆり、本名:石川 絹代(いしかわ きぬよ)[2]、1958年1月30日[1] - )は、日本のアイドル・演歌歌手・女優。所属音楽レーベルはテイチクエンタテインメント、所属事務所は個人事務所さゆり音楽舎。
熊本県飽託郡飽田村(現・熊本市南区)出身。堀越高等学校卒業。 小学校1年生の時、島倉千代子の歌謡ショーに接し感動し、次第に歌手を志すようになる[3]。5年生まで飽田村立飽田東小学校(現:熊本市立飽田東小学校)に通っていたが[4]、その後横浜市神奈川区に転居[3]。その後、歌のレッスンを受け始める[5]。レッスンの費用は牛乳配達のアルバイトで捻出したという[6]。 石川が小学校6年生当時、歌のレッスンを受けていた音楽教室には、同時期に高橋惠子(当時姓・関根)も通っていた。高橋は「その女の子は絹代ちゃんといい、天才的な歌唱力は私の記憶に深く刻み込まれます。もともと女優志望の私でしたが、絹代ちゃんは私がぶれることなく演技一本に絞るきっかけとなった女の子なのです」と石川のことを回想している[5]。 1972年、横浜市立城郷中学校3年生の夏休みに、フジテレビ系列の「ちびっ子歌謡大会」に参加できなくなった友人に替わって参加し合格[3]、ホリプロにスカウトされ芸能界入りを果たす。同年秋に放映されたフジテレビの連続ドラマ『光る海』では、沖雅也の妹役としてレギュラー出演していた[3]。「さゆり」の芸名はこの『光る海』のプロデューサーの岡田太郎が「いつまでも美しく清潔であってほしい」というイメージで命名した[2]。 1973年3月25日、「かくれんぼ」でアイドル歌手として日本コロムビアよりデビュー[3]。キャッチフレーズは「コロムビア・プリンセス」。堀越高等学校に在学しながら芸能活動を行った。 しかし歌手デビューからしばらくは「花の中三トリオ」(森昌子・山口百恵・桜田淳子)の影に隠れたこともあり、大きな人気を得るには至らなかった。石川が歌手デビューした1973年には森昌子・山口百恵とのユニット「ホリプロ三人娘」が企画されイベントも開催されたが、短期間で頓挫した。 デビュー曲がヒットしなかったことや、上記の同世代との差が開いたことで深い挫折と劣等感に苛まれたが、その不安を払拭するように歌に没頭することを決めて二葉百合子の門を叩き、歌うことを基礎から学び直した。さらに歌に深みを持たせるため、民謡や日舞にも打ち込むなど新たな技術を貪欲に吸収した[7]。 1977年、前年1976年に発売されたアルバム『365日恋もよう』からシングルカットされた「津軽海峡・冬景色」で、大ブレイクを成し遂げる。同年末のTBSテレビ系「第19回日本レコード大賞」歌唱賞、フジテレビ系列「FNS歌謡祭」グランプリ(ほか最優秀歌唱賞・最優秀視聴者賞も獲得)など数々の音楽賞を受賞、さらに「第28回NHK紅白歌合戦」へも念願の初出場。同1977・翌1978年発売のシングル「能登半島」「暖流」[8][9]「沈丁花」なども続けてヒットした。 1980年代に入ってからも「波止場しぐれ」(1985年 第27回日本レコード大賞・最優秀歌唱賞)、「天城越え」(1986年 第28回日本レコード大賞・金賞)、「夫婦善哉」(1987年 第29回日本レコード大賞・金賞)、「滝の白糸」(1988年)、「風の盆恋歌」(1989年 第31回日本レコード大賞・最優秀歌唱賞)等と順調にヒット曲を世に送り出し、日本を代表する女性演歌歌手の一人となった。 また、刑事ドラマ「大空港」第52話に女性刑事水島さゆり役でレギュラー出演(1979年9月?1980年3月)、大河ドラマ「功名が辻」(2006年)、「麒麟がくる」(2020年)に出演するなど、女優としても活躍している。 1981年、元マネージャーの馬場憲治と結婚。1984年2月に長女・佐保里[10]を出産するも、1989年2月に離婚。 芸能界・歌手デビュー時からホリプロに所属していたが、個人事務所「株式会社さゆり音楽舎」を設立し1997年に独立。 1980年代後半にはカラオケボックス運営会社「カミパレス」の経営を知人と行い、国民銀行の融資のもとで30店舗ほど展開する実業家としての一面もあった。しかし後に経営からは退き、カミパレスは1999年9月に破産宣告を受けた。経営破綻した国民銀行が1995年にカミパレスに対して行った35億円の融資について、不良債権を引き継いだ整理回収機構が石川個人が契約した連帯保証の残金28億円余りの支払を求める損害賠償請求を提起。2003年に東京地裁で一審判決が出たが、その内容を不服とした整理回収機構が抗告すると共に石川の自宅を一時差し押さえた。
略歴