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石嶺聡子
出生名石嶺聡子
生誕 (1975-10-03) 1975年10月3日(48歳)
出身地 日本・沖縄県那覇市
学歴沖縄県立首里高等学校卒業
ジャンルJ-POP
職業歌手、シンガーソングライター
担当楽器ボーカル、ギター
活動期間1994年 -
レーベル東芝EMI(1995年 - 2003年)
公式サイト ⇒石嶺聡子 公式ブログ
キャロル・キング[1]、シェリル・クロウ[2]
ほか欧米のシンガー多数
石嶺聡子
石嶺 聡子(いしみね さとこ、1975年10月3日 - )は、日本の女性歌手、シンガーソングライター。沖縄県那覇市出身。 1975年10月3日、沖縄県那覇市に三人姉妹の三女として生まれる。ビートルズやカーペンターズ等の洋楽から、レベッカやUNICORN等の邦楽まで、様々な音楽が溢れる音楽好きの家庭に育つ。10歳頃からプロの歌手を夢見るようになる[3]。 1992年9月、首里高校2年生時に琉球放送代表として出場した「第16回長崎歌謡祭」で「石狩挽歌」を歌ってグランプリを獲得したのを機に、東芝EMI(当時)のプロデューサー・篠木雅博にスカウトされる[4]。高校卒業後に上京すると間もなく、ボイストレーニングとダンスと英会話のレッスンのためにアメリカ・ロサンゼルスに留学[注 1][4]。帰国後の1994年11月9日に『土曜日とペンと腕時計』でメジャー・デビュー。しかし、レコードとライブの2本立てに絞って育てるプロデューサーの篠木の方針で、芸能事務所には所属させずにレコード会社の東芝EMI内でマネジメントするスタイルをとったため、テレビ番組などのブッキング力がなく、当初はメディア露出に苦戦した[4]。 翌1995年3月、『第5回NHK新人歌謡コンテスト』に出場し優勝[5]。同年、映画『ひめゆりの塔』主題歌として喜納昌吉の代表曲『花』をカバー。新人歌謡コンテスト優勝者としてこの年の『第46回NHK紅白歌合戦』に『花』で出場し、CD売上が50万枚を越えるロングヒット[5]。翌1996年3月、インドネシア・バリ島で開催された「第1回アジア音楽祭」で『Asian Dream』を歌いグランプリを獲得する。 しかし『花』が大ヒットしたものの、『花』のイメージが先行して悩み、その後は自身の理想の歌を追い求めていく(後述)。 1999年、想いを形にすべく作詞・作曲活動を始めシンガーソングライターへの転向を図る。2000年12月6日に約2年ぶりのシングル『マフユノハナビ』、翌2001年1月には約3年ぶりのアルバム『クロゼット』をリリース。等身大のポップな歌へと音楽を一新する。 2003年、東芝EMIとの契約を終了し、PRHYTHM(プリズム)に移籍する。シングルとアルバムを1枚ずつリリース。また松本英子ら女性歌手達と定期的にライブを行う。2004年にはデビュー10周年記念ライブを開催。 2006年3月3日、ギタリストで編曲家の石崎光と入籍。同時にPRHYTHM(プリズム)から離れフリーランスでの活動を始める。以来、楽曲制作のほか、年に数回、音楽イベント等に出演し、2011年からは単独ライブを行う等、マイペースで活動している。 2013年5月8日、7年間連れ添った石崎光との離婚を発表[6]。 2013年6月29日、10年ぶりとなる公式音源3曲を、iTunesにて配信限定でリリース[7]。いかなるレーベルの支援も受けず、キャリア史上初となる個人名義のみでのリリースとなった。 2014年9月24日、音楽ディレクターの松尾文美と共に制作を進めた[8][9][10]自身初のカバー・アルバムを、徳間ジャパンコミュニケーションズより発売。 2022年10月2日、公式ブログやInstagramで、28年ぶりに沖縄で暮らすことを発表した[11][12]。 バラードからロック、R&B、ア・カペラや英語曲まで幅広く歌う。デビューから数年は歌うことに専念していたが、2000年頃からはギターによる弾き語りも行い、ギブソン製のアコースティック・ギターを愛用している。 歌手の神谷千尋は母方のいとこであり、沖縄民謡界の重鎮・神谷幸一は二人の叔父に当たる。 趣味は、アロマテラピー、映画鑑賞、雑貨屋巡り、WiiやニンテンドーDS等のゲーム、テレビ(主にバラエティ番組)を観ること。
来歴
人物