石島_(韓国)
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この項目では、韓国が「独島」の旧名と主張している島について説明しています。韓国忠清南道泰安郡に属する石島については「石島 (泰安郡)」を、韓国忠清南道保寧市に属する石島については「石島 (保寧市)」をご覧ください。

石島(ソクト、朝鮮語: ??、英語: Seokdo)は、1900年10月(光武4年)10月25日に大韓帝国皇帝高宗より発せられた「勅令第四十一号」[1]、に記載されている鬱島郡(現:鬱陵郡)所管の島。鬱陵島(Ulleung-do)、竹嶼(Juk-do)、竹島(韓国名:独島、Liancourt Rocks)の位置関係

大韓帝国は、この「勅令第四十一号」で、石島を鬱陵島・竹嶼とともに江原道の鬱島郡に管轄させた。石島は現在の慶尚北道 鬱陵島付近の島と考えられるが、現在のどの島にあたるのか特定できる文献資料はない[2]大韓民国政府は、この島を独島(現在の日本名竹島)とみなし、竹島が日本島根県に編入された1905年の官報より先であることを理由に「独島は韓国固有の領土」と主張し、また、学校教育でもそのように教えている[3][4]。それに対し、日本では、石島は鬱陵島の北東近傍に所在する小島、観音島なのではないかという見方が示されている(詳細後述)。

なお、韓国の慶尚北道は大韓帝国「勅令第四十一号」が出された1900年10月を記念して、10月を「独島の月」に制定している[5]
勅令第四十一号.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに大韓帝国勅令第41号の原文があります。勅令四十一号の基となった『鬱島記』

「石島」は、1900年10月25日の大韓帝国「勅令第四十一号」に登場する島である[1]。この勅令は、李乾夏(議政府議政臨時署理賛政内部大臣)にあてたもので、韓国皇帝高宗太皇帝御璽の押された正式なものである。(下記は一部ハングルで書かれている付属語等を日本語に訳している)

勅令第四十一号[1]

鬱陵島を鬱島と改称し島監を郡守に改正する件

第一条 鬱陵島を鬱島と改称し江原道に所属させ島監を郡守に改正し官制に編入し郡等級は五等にする事
第二条 郡庁は台霞洞に置き区域は鬱陵全島と竹島石島を管轄する事
(略)

この勅令では、鬱島郡の管轄する地域が「鬱陵全島と竹島石島」と規定されているが、経緯度への言及は示されていない。この勅令が発せられる数か月前、大韓帝国政府は日本政府に要求して日韓共同調査団を構成し、鬱陵島の現況を調査した[4]。視察官に任命された禹用鼎は、1900年5月31日から6月5日まで日本の釜山領事館に駐在する赤塚正助副領事、およびフランス人税務士ラポルテと同行して鬱陵島周辺を踏査したが、調査後に禹用鼎が著した『鬱島記』には現在の竹島(韓国名:独島)を訪れた形跡はまったくみられない[注釈 1]。また、長い間鬱陵島に付属する島として考えられてきた「于山島」は現地で確認できなかった[7]。禹用鼎はこのなかで、日本人の鬱陵島からの速やかな撤収、船舶の購入、鬱陵島の官制の改編などを上部に提案した[4]
「石島=独島」説鬱陵島北東端100メートルにあるのが観音島、東海岸より2キロメートル沖にあるのが竹嶼

韓国政府は、勅令中の「竹島石島」のうち「竹島」を竹嶼、「石島」を独島(現在の日本名:竹島)としており、勅令は独島である石島が1900年10月の時点で正式に韓国領になった証拠であると主張している[3][4][8]。「竹島」を竹嶼とする点は日本側の見解とほぼ一致しているが、石島に関しては独島(竹島)は鬱陵島より東南東に87キロメートルも離れており、日本ではこの説を疑問視する見解が少なくない[2][8][9]。また、島根県は韓国政府の唱える「石島=独島」説は、竹島の島根県編入を「侵略」とするために、竹島が日本領となった1905年以前に竹島が韓国領であった事実を証明するための「牽強付会の説」であるとの視方を示している[8]

たとえば、2011年8月12日、韓国の金星煥外交通商部長官は定例会見の場で、「57年前の卞栄泰元外相の公式書簡を直接引用」したものとして、

独島は、日本の韓国侵略に対する最初の犠牲の地であった。解放と同時に独島は再び我が懐に戻った。独島は韓国独立の象徴である。この島に手を出す者はすべて韓国人の頑強な抵抗を覚悟せよ。日本が独島を奪おうとすることは、韓国の再侵略を意味する。

と述べた[9][注釈 2]。しかし、竹島=独島が「侵略の最初の犠牲地」であり、日本が「略取」したとするためには、この島が島根県編入以前に韓国領であったことが韓国側の史料で明確に証明されなければならない[9]

大邱大学校の崔長根は、鬱陵島には于山国の新羅編入の512年以前から朝鮮王朝の空島政策がなされる1403年まで千年の長きにわたって人が住んでいたことは明らかで、彼らが鬱陵島から目視できる距離にある「独島」の存在を認識し、「海を背景にして生活」していた彼らは当然直接石でできた島を視認していたわけであるから、みずからの領域に「石の島」とも呼称できるもうひとつの島(すなわち独島=竹島)を認識しており、当然、この「石の島」は人の住めない岩礁でできた島であったことを把握しただろうとして[10]、「石の島」の意味で「トクソム」と呼称されていたのを、文献記録のために漢字表記で「石島」とし、全羅道方言からの借音表記で「独島」と命名されたと説いた[11]

韓国が「石島」を独島=竹島とする根拠としては、このように、「石島」が「独島」に音韻変化するのは自然であることがまず挙げられる[4][11][12]。すなわち、朝鮮語の標準語には、「石」や「岩」を意味する「トル」という固有語があり、韓国の全羅道の南海岸の方言ではこれが「トク」ないし「ドク」となるため、韓国では、全羅道から鬱陵島に移住した人々が竹島(韓国名:独島 トクト)を「トクソム」(石の島)と呼んでいたという[12][注釈 3]。そのため、大韓帝国の勅令ではこの島を「石島」と表記しているが、「独」の音読(トク、ドク)が同音であるため、後に「独島」に改められたとするものである[4]。この、トルソム → ドクソム → 石島 → 独島 という音韻変化は「全て独島の名称として使われていた」と学校教育を通じて生徒にも教えられている[4]

ただ、池内敏はこのような論証について、鬱陵島の初期移住民たちがどれほど竹島=独島を知っていたのか、また、彼らによる民間呼称が「ドク(トク)ソム」ないし「ドク(トク)ト」であったことは「どのような手続きを経て明らかにされてきた事実なのだろうか」と疑問を呈している[2]


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