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石山本願寺
石山本願寺復興模型
(大阪城天守閣所蔵)
所在地摂津国東成郡生玉荘大坂[注釈 1]
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度41分4.427秒 東経135度31分27.922秒 / 北緯34.68456306度 東経135.52442278度 / 34.68456306; 135.52442278座標: 北緯34度41分4.427秒 東経135度31分27.922秒 / 北緯34.68456306度 東経135.52442278度 / 34.68456306; 135.52442278
宗旨浄土真宗
宗派本願寺系諸派
寺格本山
本尊阿弥陀如来
創建年天文2年(1533年)
開基証如
別称大坂本願寺
石山本願寺城
大坂御坊
石山御坊
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石山本願寺(いしやまほんがんじ)は、戦国時代初期から安土桃山時代にかけて、摂津国東成郡生玉荘大坂[注釈 1]にあった浄土真宗の寺院である[1]。なお、名称に関しては、大坂本願寺、大坂城など、様々な説がある。
他の本願寺と比較した際の特徴は、本山・石山本願寺を中心に防御的な濠や土居[注釈 2] で囲まれた「寺内町」を有する点である[2]。 天文2年(1533年)に本願寺教団の本山となって以後発展し、戦国の一大勢力となったが、織田信長との抗争(石山合戦)の末、天正8年(1580年)に顕如が明け渡し、その直後に焼失した。 寺地は上町台地の北端にある小高い丘だった。その北で淀川と旧大和川が合流しており、その付近にあった渡辺津は、淀川・大和川水系や瀬戸内海の水運の拠点で、また住吉・堺や和泉・紀伊と京都や山陽方面をつなぐ陸上交通の要地でもあった。台地にそった坂に町が形成されたことから、この地は「小坂(おさか)」、後に「大坂」[注釈 3] と呼ばれたという。同寺建立以前は、古墳であったとも言われ、生国魂神社の境内であったともいわれている。同神社は太古からの神社であるため、この地が太古の磐座であったとの説もある。なお、同神社は後の大坂築城の際に上町台地西麓の現在地へ遷座されている。 石山本願寺は、堀、塀、土居[注釈 2]などを設けて要害を強固にし、武装を固め防備力を増していき、次第に「寺内町」が形成されていたと考えられている。
概要
沿革.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに信長公記の原文があります。ウィキソースに鷺森旧事記
石山御坊時代証如影像
蓮如は延徳元年(1489年)に法主を実如に譲り、自身は山科本願寺の南殿に隠居した。しかし、布教活動は引き続き盛んに行い、大坂周辺へも年に何回か行き来し、明応5年(1496年)9月に坊舎(大坂御堂)の建設が開始され、これが後に石山本願寺となった。
建設は堺の町衆、摂津、河内、和泉、北陸の門徒衆の援助を得ながら、翌明応6年(1497年)4月に上棟があり、同年11月には総石垣の扉御門が出来、要害の寺院が完成した。蓮如は今までいくつかの坊舎を建設したが、『日本都市史研究』によると、その中でも大坂御坊がもっとも美しいものであったという記録がある、としている。なおこれに伴い建設された寺内町が現在に繋がる大坂の町の源流になったとされる。
生玉荘と呼ばれていた当地が、なぜ「石山」と呼ばれるようになったのか、理由は明確になっていないが、蓮如の孫である顕誓が永禄11年(1568年)に書いた史料によると、
「明応第五ノ秋下旬蓮如上人(中略)一宇御建立、其始ヨリ種々ノ奇端不思議等コレアリトナン。マヅ御堂ノ礎ノ石モネカネテ地中ニアツメヲキタルガ如云々」
?反故裏書
と記されている。これによると、そのまま礎石に使える大きな石が土中に多数揃っていたという不思議な状況に因んで、石山と呼称したようになったのであろうとしている。なお、後年の発掘調査の結果、大坂城址一帯は難波宮の比定地にもなっている。
これに対して、吉井克信が「石山」の名称が用いられるようになったのは石山本願寺が無くなった後の近世(江戸時代)以降の表現であり、「大坂本願寺」が当時用いられていた名称であるとする説[3] を唱えており、これを支持する研究者の間では「石山戦争」を「大坂本願寺戦争」と呼び変える動きがある[4]。
蓮如の後継者実如は、細川政元と畠山義豊との明応の政変以降の戦いに対して、細川政元から強く参戦を求められていた。永正3年(1506年)に実如は、摂津、河内の門徒衆の反対を押し切り、本願寺として初めて参戦した。「享禄・天文の乱#河内国錯乱」も参照
これ以降、本願寺は武装化していき武士勢力との抗争が始まっていく。
享禄5年(1532年)5月、河内守護代木沢長政が守護職を乗っ取ろうとしていることが発覚し、河内守護である畠山義堯によっての飯盛山城を攻撃された。畠山勢には三好元長、筒井氏も加わった。そこで実如の後継法主証如は、細川晴元からの救援の要請に応じて大坂御坊により門徒衆2万兵を率いて参戦し、翌月6月には、攻囲軍を退散させた(飯盛城の戦い)。さらに一向一揆は法華宗徒であった三好元長を堺まで追い回し、自害に追いやった。その間にも参集した門徒は10万人まで集まったと伝わる。しかし、ここで解散せずに大和へも乱入した一向一揆に危機感を覚えた晴元が、天文に改元後の同年8月初旬から本願寺の末寺や大坂御坊に攻撃を仕掛けてきた。更に晴元からの要請に応じた法華一揆衆や近江守護六角定頼によって、同年8月23日に3万から4万の兵で包囲された山科本願寺は、寺内町共々焼き討ちに遭って焼失してしまう(山科本願寺の戦い)。