石山本願寺
石山本願寺復興模型
(大阪城天守閣所蔵)
所在地摂津国東成郡生玉荘大坂[注釈 1]
位置北緯34度41分4.427秒
東経135度31分27.922秒
石山本願寺(いしやまほんがんじ)は、戦国時代初期から安土桃山時代にかけて、摂津国東成郡生玉荘大坂[注釈 1]にあった浄土真宗の寺院である[1]。戦国の当時は「大坂本願寺」「大坂城」と呼ばれており、後世「石山本願寺」というようになった。
他の本願寺と比較した際の特徴は、本山・石山本願寺を中心に防御的な濠や土居[注釈 2]で囲まれた「寺内町」を有する点である[2]。 天文2年(1533年)に本願寺教団の本山となって以後発展し、戦国の一大勢力となったが、織田信長との抗争(石山合戦)の末、天正8年(1580年)に顕如が明け渡し、その直後に焼亡した。 寺地は上町台地の北端にある小高い丘だった。古代は港湾都市、国内流通の中心であった住吉津や難波津、中世には渡辺津があった。丘の北緯は淀川と旧大和川が合流しており、その付近にあった渡辺津は、淀川・大和川水系や瀬戸内海の水運の拠点で、また住吉・堺や和泉・紀伊と京都や山陽方面をつなぐ陸上交通の要地でもあった。台地にそった坂に町が形成されたことから、この地は「小坂」、後に「大坂」[注釈 3]と呼ばれたという。同寺建立以前は、古墳であったとも言われ、生国魂神社の境内であったともいわれている。同神社は太古からの神社であるため、この地が太古の磐座であったとの説もある。なお、同神社は後の大坂築城の際に上町台地西麓の現在地へ遷座されている。 石山本願寺は、堀、塀、土居[注釈 2]などを設けて要害を強固にし、武装を固め防備力を増していき、次第に「寺内町」が形成されていたと考えられている。そうしていくうち、いつの日からか[要出典][いつ?]「摂州第一の名城」と言われるほどになり、「石山本願寺城」とも通称されるようになった。石山合戦では織田信長を相手に、足掛け10年間も戦うことができた。特に3度目の戦いの第二次木津川口の戦い以降、天正6年(1578年)から天正8年(1580年)までの約1年半に渡り、ほぼ無補給で耐え続けた事は、日本史上ほかに類が無く、特筆に値する。[要出典]
目次
1 概要
2 沿革
2.1 石山御坊時代
2.2 石山本願寺時代
2.3 石山合戦と廃城
3 石山本願寺と寺内町の構造
3.1 立地
3.2 規模
3.3 防備
4 日常
4.1 番衆
4.2 刀鍛冶集団
4.3 鉄砲
4.4 大坂並
4.4.1 石山合戦前
4.4.2 石山合戦後
5 寺院跡へのアクセス
6 脚注
6.1 注釈
6.2 参照
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク
概要
沿革
石山御坊時代 証如影像