石垣_(海防艦)
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石垣
石垣
基本情報
建造所玉造船所
運用者 大日本帝国海軍
艦種海防艦
級名占守型海防艦
建造費3,060,000円(予算成立時の価格)
艦歴
計画B計画
起工1939年8月15日[1]
進水1940年9月14日[1]
竣工1941年2月15日[1]
最期1944年5月31日、被雷・沈没[2]
除籍1944年7月10日
要目(併記無き限り竣工時)
基準排水量860トン
公試排水量1,020トン
全長78.00m
最大幅9.10m
吃水3.05m
主機22号10型ディーゼル 2基2軸
推進2軸
出力4,500hp
速力19.7ノット
燃料重油220トン
航続距離16ノットで8,000海里
乗員竣工時:定員150名[注釈 1]
1942年7月1日時点:定員146名[注釈 1]
兵装三年式45口径12センチ単装平射砲x3基
25mm連装機銃x2基
九四式爆雷投射機x1基
爆雷x18個
搭載艇短艇x4隻
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石垣(いしがき)は、日本海軍海防艦[3][4]。艦名は沖縄県にある石垣島にちなむ。
概要

軍艦(ぐんかん)石垣(いしがき)は[3][5]、日本海軍が1939年(昭和14年)8月から1941年(昭和16年)2月にかけて建造した海防艦[1]。竣工時は軍艦籍にあったが[6]1942年(昭和17年)7月の見直しで[5][7]、海防艦(かいぼうかん)石垣(いしがき)に名称変更[5]、および類別変更された[8]。海防艦としては、占守型海防艦の4番艦である[4][8]。就役してから撃沈されるまでの大部分の期間、北東方面海域(大湊以北)で行動した[4]1943年(昭和18年)10月上旬、米潜水艦S-44撃沈する戦果を挙げた[9][10]

1944年(昭和19年)1月中旬から2月下旬、石垣は臨時に第二海上護衛隊に編入され、内地?トラック泊地の護衛任務に従事[11][12]。3月上旬、北東方面に戻る[10]。引き続き千島列島での海上交通保護任務に従事した。5月31日、石垣は米潜水艦ヘリングの雷撃により松輪島で沈没[10]。占守型唯一の戦没艦となった[13]。なお石垣を撃沈したヘリングも、松輪島陸上砲台の反撃により同島で沈没した[14]
艦歴
太平洋戦争開戦まで

軍令部第一課が1938年(昭和13年)10月に作成した「昭和十九年度戦時編制案」では第五艦隊の第二十一戦隊を構成する海防艦4隻の艦名として[15]、「昭和二十五年度戦時編制案」では第五艦隊・第25戦隊を構成する海防艦4隻の艦名として[16]、それぞれ「占守國後八丈宮古」の記述がある。また、同年11月に作成された「昭和十九年初頭ニ於ケル保有艦船一覧表」では、海防艦6隻の艦名として「占守、國後、八丈、宮古、見島御蔵」とある[17]

実際の「石垣」は、B計画の1,200トン型海防艦[18][注釈 2]、仮称艦名第12号艦として計画。1939年(昭和14年)8月15日株式会社玉造船所で建造番号263番船[19]として起工[1]。当時の玉造船所では、姉妹艦占守を建造していた[20]

1940年(昭和15年)7月25日、日本海軍は呉海軍工廠で建造中の戦艦を「大和[21]、玉造船所で建造中の本艦を海防艦「石垣」と命名した[3]9月14日、石垣は進水[1]。11月15日、日本海軍は藤谷安宅中佐(当時、砲艦伏見艦長)を石垣艤装員長に任命する[22]

1941年(昭和16年)2月15日、竣工[4][1]。藤谷中佐(石垣艤装員長)は石垣艦長となる[23]。本籍を舞鶴鎮守府[10]、役務を舞鶴鎮守府警備艦にそれぞれ定められる。同日付で大湊要港部部隊に編入[10][注釈 3]。9月3日、藤谷安宅中佐(石垣艦長)は篠田太郎八大佐の後任として、給油艦尻矢特務艦長へ転任[24]。河野康中佐(当時、重巡熊野副長)が2代目の石垣艦長となる[24]


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