石垣綾子
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石垣綾子石垣綾子・栄太郎夫妻(1927年)

石垣 綾子(いしがき あやこ、1903年9月21日[1] - 1996年11月12日)は、日本の女性問題評論家社会運動家。旧姓・田中[2]
来歴

陸軍幼年学校物理学教授田中三四郎の二女として東京に生まれる[3][4]。母親を幼少期に亡くし、父親の手で育つ[2]府立第一高女に学び、YMCAの英語クラス、バイブル・クラスに通って社会運動にふれる[3]自由学園卒業。警察に検挙されたことをきっかけに、家族の勧めにより[2]、1926年に外交官としてワシントンに赴任する姉夫婦とともに米国に渡り、反戦・社会運動に参加する[3]。姉夫婦宅を飛び出し、ニューヨークで知り合った日系移民の画家・石垣栄太郎と1929年に結婚し、店員や工員として働く[2]

1929年から1937年の間に、ジャック白井とも知り合い、親交を持っていたとされる(後述の手記「オリーブの墓標」はジャック白井をメインに据えている)。

満州事変が起こると、"The New Masses"や"China Today"などニューヨークのマルキスト雑誌に投稿を始め、1937年にはアメリカ共産党の下部組織American League for Peace and Democracyに雇われ、西海岸のオーガーナイザーに任命された[2]ロサンゼルスに移り、日本語新聞羅府新報」のコラムニストになり、女性の権利や反戦について主婦向けの記事を連載した[2]。同年ニューヨークに戻り、中国を支援する講演巡業を引き受け、1940年にはハル・マツイの筆名で英語の小説"Restless Wave"を執筆。同書はハルの自伝の形をとったフィクションで、好日的な態度の日系米人を批判し、好評を博した。日中戦争太平洋戦争中は、日本兵に対する反戦の呼びかけ運動を行うとともに、米軍に協力して夫とともに[5]、米軍の対日プロパガンダ機関である戦時情報局伝単作成にも携わった[6]

戦後も戦時情報局に5年務めるなど米国政府に貢献したが、アグネス・スメドレーら左翼活動家との交流が嫌われ、1951年にマッカーシズムにより、国外退去となった夫に伴い帰国[2]

帰国後、『婦人公論』1955年2月号に発表した「主婦という第二職業論」で「第一次主婦論争」の火蓋を切る。以後テレビや雑誌に多数登場し[2]、女性問題で活躍した。その女性論はしかし、裕福な家庭に生まれ優れた能力を持ち理解ある伴侶に恵まれた者のブルジョワ女性解放論でしかなく、むやみと「愛」を強調するばかりだという意見もある[誰によって?]。1958年、夫の栄太郎に死別し、1967年、イタリア在住の画家・別府貫一郎と再婚。

滞米時に交友があった、パール・バックの作品の翻訳、アグネス・スメドレー伝などが著名である。
親族

父親の田中三四郎は1873年に京都府平民・田中元三郎の次男として生まれ、6歳のときに叔父・田中三四郎の絶家を再興、1898年東京帝国大学理科大学物理科を卒業し、1900年に陸軍幼年学校教授となり、1911年第六高等学校教授、その後山形高等学校教授を務めた[7][8]。なお、夏目漱石の『三四郎』は、早稲田南町の夏目家と田中家が近所であったことから、漱石が田中三四郎の表札を見て、主人公の名を思いついたと言われる[9]

姉の輝子は東京府立第一高等女学校卒業後、外務事務官の佐藤敏人と結婚し、夫とともに1926年渡米。敏人は東京大学政治科卒業後、シアトル領事館員、在サンフランシスコ日本総領事(1939-1940)などを務めた[10]。敏人の父・佐藤潤象(みつかめ)は熊本の士族の出で、熊本県の農商務林務官を経て、韓国政府の農工商部に勤務ののち、大倉喜八郎と釜山埋築会社 ⇒[1]を設立、朝鮮瓦斯電気会社 ⇒[2]、朝鮮中央鉄道会社の創立メンバーとして重役に就任し、1924年に熊本選出の衆議院議員となった人物[11]。輝子と敏人の長男・佐藤晃一ホテルオークラの社長・会長を歴任した。
著書『桐一葉』と呼ばれる石垣が作成した伝単[6]

「Restless wave 憩なき波」マツイ・ハルの筆名での英文の自伝著作, 1940年刊

『憩なき波 私の二つの世界』佐藤共子訳、未來社, 1990。日本語版まえがき追加


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