石坂照子
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石坂 照子
生誕
1926年9月28日
大日本帝国山形県
死没 (2019-06-04) 2019年6月4日(92歳没)
国籍 日本
研究分野免疫学
研究機関旧国立予防衛生研究所 (現国立感染症研究所)
カリフォルニア工科大学
ジョンズ・ホプキンス大学
小児喘息研究所(デンバー
出身校東京女子医科大学
東京大学
博士課程
指導教員岸本忠三
主な業績免疫グロブリンEの発見
主な受賞歴パサノ賞 (1972)
朝日賞 (1973)
ガードナー国際賞 (1973)
配偶者石坂公成
プロジェクト:人物伝
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石坂 照子(いしざか てるこ、1926年9月28日 - 2019年6月4日[1][2]は、日本免疫学者。カリフォルニア州立工科大学助教授、ジョンズ・ホプキンス大学教授を歴任、在米時代の愛称はテリー (Terry)。フルブライトフェロー。

石坂公成とともに免疫グロブリンEの機序を解明、発表した。夫妻の功績を記念し毎年2月20日を「アレルギーの日」に、またその週は「アレルギー週間」に指定された[3]
履歴

旧姓松浦、1944年3月旧山形第一高等女学校卒業[4]、東京女子医学専門学校 (東京女子医科大学の前身) に進む。1949年に卒業し1957年月3月22日、東京大学で医学博士号を授与される[5]。大学卒業後の1951年から1957年にわたり国立予防衛生研究所 (国立感染症研究所の前身) で血清の研究を進め、フルブライト奨学金を得てアメリカ合衆国カリフォルニア工科大学へ研究留学するのは1957年から1959年までである。東京大学大学院で恩師岸本忠三(第14代大阪大学校長)の指導を共に受けた石坂公成と一緒であった[6]。石坂はコロラド大学附属デンバー病院ぜん息研究所病院の助教授職 (小児科) を1962年から1970年まで務める。

1970年に2度目の渡米、コロラド州立大学からボルティモア(メリーランド州)のジョンズ・ホプキンス大学へ移ると准教授として迎えられ (アソシエイト・プロフェッサー)[7]医学免疫学の授業を行う。1979年には医学部教授に昇進。当時、アメリカ東海岸で同大学ほかハーバード大学ペンシルヴァニア大学などに在籍する女性の教授の2人目で、日本人女性がアメリカの大学で正式に教授職についた先駆けと言われる[7]

研究テーマは日本にいた時から補体であったことから、世界の補体研究を率いたジョンズ・ホプキンス大学のマンフレッド・M・メイヤー(ドイツ語版)の教室で微生物学の研究を始める。やがて重合したγグロブリンに補体を結合する作用があり、その機序が抗原抗体結合物と同様であること、抗体分子が(抗原によって)重合し補体が抗原抗体結合物に結合することを証明した[8]1979年に同大学教授に就任、ラホイヤ研究所のアレルギー部長[8]とカリフォルニア工科大学教授[9]を兼務。ジョンズ・ホプキンズ大学を退職後、石坂は1989年ラホイヤ研究所 (LJI、旧 LIAI) で研究施設を開設する[6]

ラホイヤ研究所を引退した石坂は夫と故郷の山形県へ移る。線条体黒質変性症(英語版)を発症、療養を続けていた[10][11]

2019年6月4日、肺炎のため死去[12]。92歳没。
実績

1966年2月20日、石坂照子と石坂公成の連名で免疫抗体Eの発見を発表、世界のアレルギー研究に大きな突破口をもたらす[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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