石坂 洋次郎
(いしざか ようじろう)
1956年
誕生1900年1月25日
青森県弘前市
死没 (1986-10-07) 1986年10月7日(86歳没)
日本 静岡県伊東市吉田風越
墓地多磨霊園
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴慶応義塾大学国文科
代表作『若い人』(1933年 - 1937年)
『麦死なず』(1936年)
『青い山脈』(1947年)
『陽のあたる坂道』(1956年 - 1957年)
『あいつと私』(1961年)
『光る海』(1963年)
主な受賞歴三田文学賞(1935年)
菊池寛賞(1966年)
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石坂 洋次郎(いしざか ようじろう、1900年〈明治33年〉1月15日[注釈 1] - 1986年〈昭和61年〉10月7日)は、日本の小説家[1]。青森県弘前市代官町生まれ。慶應義塾大学国文科卒。『若い人』で文壇に登場。戦後は新聞小説に活躍。『青い山脈』をはじめとする青春物で、国民的な人気を博した。数多くの作品が映像化されている。 弘前市立朝陽小学校、青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校)に学び、慶應義塾大学文学部を卒業。大学時代、心酔していた郷里の作家葛西善蔵を鎌倉建長寺の境内の寓居に訪ねるも、酒に酔った葛西から故郷の踊りを強要され、さらに相撲で捻じ伏せられた上、長刀を頭の上で振り回されて幻滅と困惑を感じる。 1925年に青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務。翌1926年から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学校)に勤務。1929年から1938年まで秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高等学校)に勤務し[注釈 2]教職員生活を終える。 葛西文学への反撥から健全な文学を志し、1927年『海を見に行く』で注目され[2]、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田文学賞を受賞。しかし、右翼団体から圧力をうけ、教員を辞職。戦時中は陸軍報道班員として、フィリピンに派遣された。 戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となり、多くの作品が映画・ドラマ化された。一方で『小説新潮』1948年10月号に掲載された『石中先生行状記』は、わいせつ文書に当たるとして一旦は書類送検されるも、同年10月28日、検事と編集部が談合して書類送検が取り消される出来事もあった[3]。 戦前からよく訪れていた軽井沢に別荘を建て[4]、以後毎夏数ヶ月滞在し、川口松太郎、井上靖、水上勉、吉川英治、柴田錬三郎などの文壇仲間とゴルフにも興じた。1966年、「健全な常識に立ち明快な作品を書きつづけた功績」が評価されて第14回菊池寛賞を受ける。しかし石坂自身は「健全な作家」というレッテルに反撥し、受賞パーティの席上で「私は私の作品が健全で常識的であるという理由で、今回の受賞に与ったのであるが、見た目に美しいバラの花も暗いじめじめした地中に根を匍わせているように、私の作品の地盤も案外陰湿なところにありそうだ、ということである。
来歴・人物