石坂泰三
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「財界総理」と呼ばれた元経団連会長石坂泰三

石坂 泰三(いしざか たいぞう、1886年明治19年)6月3日 - 1975年昭和50年)3月6日)は、日本財界人、経営者逓信省を退官、第一生命保険に入社。第一生命保険、東京芝浦電気(現・東芝)社長を経て、第2代経済団体連合会経団連)会長(在任、1956年(昭和31年)2月21日?1968年(昭和43年)5月24日)。経団連会長を4期、12年務めた。経団連会長の異名 「財界総理」は石坂泰三を嚆矢とする。正三位勲一等
経歴

1886年(明治19年)6月3日東京に石坂義雄・こと夫妻の三男として生まれる。父・義雄は埼玉県大里郡奈良村(現熊谷市)の地主の子として生まれ、東京に出て家庭教師や書記等の仕事をしていた[1]。とくに裕福というほどでもないが、平和な中産家庭だったという[2]

尋常小学校時代には2年生ぐらいから、ランプや行灯の下で漢籍の素読をやらされた[3]大学中庸論語などは何のことか分からなかったが声をあげて読んだ[3]。当時牛込には2つしか小学校がなかったが、泰三は牛込北町・愛日小学校にはいった[4]。同級に大島浩(元陸軍中将)がいた[4]。先輩には永田鉄山、歌人の川田順らがいた。そのころは小学校4年生の課程を終わると、中学校を受ける資格があった[4]。小学校5年次に城北中学(のちの府立四中・都立戸山高)を受けるも失敗[4]。6年まで小学校をやり、「それなら城北よりもっといい学校にはいろう」と決意し、東京府尋常中学(のちの府立一中・都立日比谷高)を受験、合格した。1904年、中学を卒業した[5]。その年に一高独法科に入学した[5]

1911年(明治44年)、東京帝国大学法科を卒業[6]逓信省に入省、貯金局に配属された[7]。泰三は判任官で45円の月給だった[7]。織田一(農商務省勤務)の長女雪子と結婚する。1913年(大正2年)、小石川の原町に家を持った[8]

1914年(大正3年)、高等官に昇進し為替貯金局事務官補となる。岡野敬次郎法制局長官の紹介で第一生命保険相互会社(現・第一生命保険株式会社)矢野恒太社長に紹介されたのが機縁となり、1915年(大正4年)、逓信省を退官[9]し、第一生命に入社し[10]、矢野社長の秘書となる。1916年(大正5年)、生命保険事業視察のため欧米諸国を歴訪[11]、翌年9月に帰国する。1938年(昭和13年)、第一生命取締役社長に就任する。この年の秋に丸の内に後にGHQの本部ビルとなった、第一生命本社ビルが完成している。1947年(昭和22年)に辞任するまで、第一生命は中堅から大規模生命保険会社に成長した。なお、GHQが本社ビルを接収した際には、社長室にある石坂の椅子にはダグラス・マッカーサーが座ることとなった。石坂の社長室からマッカーサーの執務室となった部屋のデスクは引き出しの無いダイニングテーブルの様なものであった。マッカーサーは使い勝手の悪さを疑問に思い石坂に理由を問うと「社長たるべき者は、持ち込まれた会社の問題は即決すべきで、引き出しの中に寝かせるべきでない」と答えた。GHQの最高責任者即ち日本という組織の事実上のトップとなったマッカーサーは石坂の思想に強く共感し、そのまま使い続けたという逸話がある。

戦後、吉田茂から大蔵大臣就任を打診されたが辞退している。三井銀行(現・三井住友銀行)頭取の佐藤喜一郎と東京芝浦電気(現・東芝)社長の津守豊治の依頼で、1948年(昭和23年)に東京芝浦電気取締役、翌年社長となる。東芝は当時、大労働争議のため労使が激突し倒産の危機にあった。あえて火中の栗を拾った形となった石坂は、真正面から組合と交渉し6,000人を人員整理し、東芝再建に成功する。

1955年(昭和30年)、日本生産性本部初代会長[12]多磨霊園にある石坂家の墓墓の横にある石碑には、泰三の功績が年表で記されている

官僚出身の割に官僚の民間経済への介入を嫌ったが、東芝再建に官界や他勢力の力を借りずに成し遂げたことで、1956年(昭和31年)、石川一郎経済団体連合会(経団連)会長辞任を受けて後任の経団連会長と、産業計画会議委員(議長・松永安左ヱ門)に就任する。1957年(昭和32年)、石川島播磨重工業(現・IHI)相談役、東京芝浦電気会長に就任する。自由主義経済の原則のもと、官僚の干渉を排除する姿勢や指導力に高い評価を受ける。政治への発言、行動も躊躇せず、1956年(昭和31年)には日本商工会議所会頭の藤山愛一郎と共に鳩山一郎首相に対し退陣を求めた。1960年(昭和35年)の60年安保闘争では、安保改定阻止国民会議を中心とする反対運動の盛り上がりによって、アイゼンハワーアメリカ大統領の訪日が中止されるという緊迫した状況を受けて、経団連など経済四団体が「時局に対する共同声明」を発している。安保反対の先頭に立った浅沼稲次郎暗殺事件に際して「暴力行為は決していいものではない。だがインテリジェンスのない右翼の青年がかねて安保闘争などで淺沼氏の行為を苦々しいと思っていて、あのような事件を起こした気持もわからないではない。」と実行犯に同情的な発言をしたため問題視された[13]

1957年(昭和32年)、アラビア石油会長に就任。1960年(昭和35年)、1964年東京オリンピック資金財団会長に就任。1963年(昭和38年)、日本工業倶楽部理事長に就任。1964年(昭和39年)、日本国は経済協力開発機構(OECD) に加入し、それにともない産業経済諮問委員会(BIAC)にも加入した。石坂はBIAC日本委員長となり、積極的に資本の自由化に取り組んだ。同1964年、小泉信三の後を受け宮内庁参与に就任。また、ボーイスカウト日本連盟総裁となる。1965年(昭和40年)、昭和天皇の御前で講義を行う。同年11月、三木武夫通産大臣の要請で、人選が難航していた日本万国博覧会協会会長を引き受け、1970年(昭和45年)3月の大阪万博開催に漕ぎ着けた。1967年(昭和42年)、日本いけばな芸術協会副総裁就任。


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