石坂昌孝
[Wikipedia|▼Menu]

石阪 昌孝(いしざか まさたか、1841年6月11日天保12年4月22日〉 - 1907年明治40年〉1月13日[1])は、日本幕末から明治期の名主政治家。神奈川県会議員、神奈川県会議長(初代)、群馬県知事(官選第5代)、衆議院議員(4期)。幼名・高之助[1]
経歴民権の森(町田市野津田町)にある石阪昌孝の墓富士森公園(八王子市台町)にある石阪昌孝の顕彰碑「放庵石阪君之碑記」

武蔵国多摩郡野津田村(のち鶴川村、現在の町田市域)で豪農・石阪吉恩の三男として生まれ[2]、母の実家、名主・石阪昌吉の養子となる[1][3]安政4年10月1857年11月)、家督を相続し、又次郎を襲名[1]

明治維新後、明治5年1月1872年2月)、第三十戸籍区戸長となり、第八区区長、神奈川県権少属を歴任。1879年2月に神奈川県会議員となる。1880年7月、東京生糸商会を設立した[1]

自由民権運動に加わり、1881年11月、政治結社「融貫社」を結成し、青年を育成した。1882年7月、自由党に入党した[1][3]

1890年7月、第1回衆議院議員総選挙に神奈川県第三区から出馬し当選[4]。以後、第4回総選挙まで連続4回の当選を果たした[5]

1896年8月、群馬県知事に就任。同年9月、渡良瀬川の大洪水が足尾鉱毒事件の端緒となった[3]1897年4月、知事を非職となる[6]
官歴等

1873年(明治6年)5月 - 第八區區長 任官[1][7]

1874年(明治7年)

6月 - 神奈川県権少属 任官[1]

12月 - 神奈川県権少属 免官[1]


1879年(明治12年)2月 - 神奈川県会議員 当選[1]・神奈川県会議長 選出[7]

1881年(明治14年) - 神奈川県会議員 辞職[7]

1890年(明治23年)7月1日 - 第1回衆議院議員総選挙(神奈川県小選挙区 神奈川3区)初当選

1892年(明治25年)2月15日 - 第2回衆議院議員総選挙(神奈川県小選挙区 神奈川3区)2期目当選[4]

1894年(明治27年)

3月1日 - 第3回衆議院議員総選挙(東京府[8]小選挙区 東京13区)3期目当選[9]

9月1日 - 第4回衆議院議員総選挙(東京府小選挙区 東京13区)4期目当選[10]


1896年(明治29年)8月12日 - 群馬県知事 任官

1897年(明治30年)4月7日 - 群馬県知事 非職

栄典

1896年(明治29年)9月21日 - 正五位[11]

親族

娘:石阪美那子(
北村透谷の妻)

脚注^ a b c d e f g h i j 『日本近現代人物履歴事典』42頁。
^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、99頁。 
^ a b c 『新編日本の歴代知事』285頁。
^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 明治45年2月』衆議院事務局、1912年、8頁。 
^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』61頁。
^ 『官報』第4126号、明治30年4月8日、p.246
^ a b c 篠田正作 1891
^ 1893年に南多摩郡域は神奈川県から東京府に移管された
^ 『衆議院議員総選挙一覧 明治45年2月』衆議院事務局、1912年、3頁。 
^ 『衆議院議員総選挙一覧 明治45年2月』衆議院事務局、1912年、66頁。 
^ 『官報』第3972号「叙任及辞令」1896年9月23日。

参考文献

篠田正作 編『明治新立志編』鍾美堂、1891年、97-98頁。 

歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。

秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。

秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。

衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

関連項目

村野常右衛門

胎中楠右衛門










群馬県知事(官選第5代:1896-1897)
官選

第一次群馬県
(-1873)

権知事・権令

青山貞

県令

河瀬秀治入間県

1873年6月15日群馬県・入間県が合併して熊谷県となる


熊谷県
(1873-1876)

県令


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:22 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef