石坂 宗哲(いしざか そうてつ)は、江戸時代の鍼医の名跡。特に指定しない場合は、(?斎うさい)石坂宗哲を指すことがほとんどである。なお、江戸時代の出版物では「石阪宗哲」と「石坂宗哲」が混在するが、石坂が多い。また、明治あるいは昭和以降の出版と論文では石坂と記述される事がほとんどである。 甲府の藤原家に生まれる。幼名は文和、永教[2]、号は?斎。後に石坂家が江戸の大火(後述)にあったせいか幼少の頃はほとんど記録がない。石坂家二代目、石坂宗鐵の長男が幼くして病弱となり後継ぎが出来ないので文和を養子にしたいと依頼する。文和は当時5歳ごろとおもわれる。養祖父石坂志米一、養父石坂宗鐵は共に杉山流鍼治導引稽古所(世界初の盲人教育機関)で鍼術、導引、按摩を学ぶ。文和も同所で鍼灸、導引、按摩を学ぶ、教科書は初等科では杉山流三部書(療治之大概集、選鍼山要集、医学節要集)中等科では中国古典鍼灸、内経、難経など、また鍼管法、杉山真伝流の表之巻を学ぶ。高等科では杉山流を他人に伝授する教育を受ける。杉山真伝流、目録之巻物一巻、真伝流中之巻、奥龍虎之巻を学び、終了時には門人神文帳が伝授される。1796年(寛政8年)12月22日、小普請医となり、鍼科と漢方科の教育機関の創設を命じられ金二十両を賜り甲府へ赴任し、翌1797年(寛政9年)6月、甲府医学所を興す[1][3]。初年度に200人以上の生徒が全国から集まる。教育内容は西洋解剖学、生理学を含み現在の鍼灸教育の先鞭となる。また漢方医学科を設けられ校内に3000坪の薬園があった。 1799年(寛政11年)8月5日、妻の高子が没、1800年(寛政12年)に頭取の宇佐美道茂が病で急死。同年5月15日、任務を果たして甲府より江戸に戻る。なお甲府医学所は明治元年まで東洋医学の教育と治療を行った。1802年(享和2年)11月22日、寄合医師に進み、禄百俵を給せらる(この時、御目見以上の身分になったものと推定される)。なお1803年(享和3年)に奥医師(鍼科)に進んだものと考えられ、1812年(文化9年)9月11日将軍徳川家斉に拝謁(その時家斉は、「私の祖父の命で一橋家から将軍職を絶やさないように沢山の子を持つように」と言付けられた、そして「そちの鍼を打つことで子宝を授かることが出来るか」と尋ねた。宗哲は「出来ます」と言う)。同年12月16日、法眼に叙せられ録二百俵を給せられる。 文政年間には、後述するようにフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと交流し解剖学を学ぶ、そのことから「シーボルトの弟子」と記載される例[4]もある、またシーボルトに鍼を教えていたのは宗哲であり、そういう意味ではシーボルトの師匠(シーボルトおよび宗哲双方にその意志は無いが)というのがふさわしい。シーボルトが江戸参府をした時に宗哲と面会する、シーボルトは宗哲に、「私の腕に鍼を打ってくれるように」と頼む、宗哲は子の宗貞に鍼を打たせた。シーボルトは痛くもなく、炎症もおこらなかったので感心した。そしてシーボルトは「それでは貴方の腕を切って繋いで見せましょう」と冗談を言ったが、宗哲は愚弄されたと思った。なお、シーボルトが帰国する1829年10月(文政12年9月)の直前、「文政十二年三月廿一日の大火記録」によれば「類焼卸医師」の住所氏名に「石坂宗哲 同宗貞」とあり、火災に遭っているようである[5]。シーボルト帰国後は、私塾,定理医学書屋、出版部 1804年(文化元年)には陽州園を設立して後進の指導に当たった[3]。1841年、隠居。子の宗貞が先に没していたため、孫の宗元が継いだ。1842年1月1日(天保12年11月20日)死去、深川増林寺に葬られる。 石坂氏は元文年間より江戸幕府に仕えていたが、『寛政重修諸家譜』編纂時点では御家人身分であったため同書には掲載されていない。また、宗哲は世襲名で子孫も襲用しており、そのため伝記には混乱が見られるので注意を要する。 石坂流鍼術の創始者で、多くの著書を遺した。1822年にはオランダ商館医「的由児里无吉」(Nikolaas Tullingh)と出会い『鍼灸知要一言』を与える。テルリンキは「初めて鍼術について聞きました。軽いことではありません。本国の医師に伝えて、行われることを願います。鍼の実技をぜひ行って下さい。今の機会を失うことを恐れます。この大略を聞かせてください」と頼んだ。よって『知要一言』を訳官、中山作三郎に渡す。訳官この書を彼に通訳し、長崎に持ち帰る。宗哲は東西の医学統合を試みて『栄衛中経図』を著した。同著は、パルヘイン(Johan Palfyn)著『人体解剖学書』の血管図を取り入れたものと見られる[1]、これはシーボルトに頼んで借りたものである。また宗哲はシーボルトに神経図を貸してくれるように頼んだ。シーボルトは1826年(文政9年)3月15日江戸参府の際に神経図を宗哲に借与する。宗哲はまた、『鍼灸知要一言』『九鍼之図説大略』『灸法略説』『鍼灸広狭神?集』『鍼灸説約』鍼灸図解』喜多村彦兵衛の『経絡図』および鍼治療道具一式『栄衛中経図』二組などを献上している。[6]シーボルトは「先生にもらった鍼法は、翻訳、印刷して国中に広めて、人々の宝としたい。謹んであなたの大いなる宝を拝します。これをヨーロッパ中に伝えて鍼灸が優れた治療法であることを知らせます。実に仁の人の教えであり、利は薄いし、この書は義の海の指南であります」。シーボルトは1833年に著したNiipon(日本)において、石坂宗哲ともに鍼治療と治療道具一式を2ページにわたって紹介しているほか[1]、帰国後に『鍼灸略説』を翻訳したと思われる論文を学会に発表している[6]。海を渡った宗哲の著作物にはSotctsとラテン語表記されていた[6]。なお、シーボルトに献じた鍼は、浅草の神戸源蔵 シーボルト以前にオランダ人医師のウィルレム・テン・ライネは1674年に将軍家綱の病気治療に来日、ヨーロッパに日本の植物、鍼灸を紹介する。 宗哲の業績は石坂流鍼術の理論と技術を完成させたことにある。彼の理論によると、気血の鬱滞により様々な病気となる、その気血の主流である衝脈、(衝脈は血の海、十二経の海、彼は下降大動脈を大衝脈と呼び衝脈と断定した)また陰経の主流任脈と陽経の主流督脈を開通する技術を開発した。衝脈が気と血液の循環を総括、調和を司るとした。しかし衝脈は身体の中心軸にあり直接鍼を行えないので、背部督脈、華佗侠脊、膀胱経、腹部任脈、腎経を利用することで衝脈を開通すると言う。 衝脈は循環器系、呼吸器系、中焦を司り、督脈は脳神経系、上焦を司り、任脈は消化器系、生殖器系、下焦を司ると言う。 その技術として石坂流三刺を開発する。それらは、誘導刺、連環刺、尖地刺である。 誘導刺は督脈、華佗夾脊、膀胱経、任脈、腎経に散鍼を行う技術。 連環刺は身体の部分で円環状の部分に三日月形に散鍼を行う技術。 尖地刺は水平刺で肩甲骨内側刺鍼などに利用する。 いずれの技術も気の流れを利用した技術であり、武道の合気術と同様の動きである(医武同源)。 宗栄衛三気弁、栄衛中経図などにより、宗脈を神経、栄脈を動脈、衛脈を静脈、中経を門脈と解釈する。 宗哲は弟子に対して「お前たちは鍼で按摩をしているだけで、医者などという大それたものではない」と教えた。 また「鍼は臍下丹田を使って行い、宇宙の気と繋がって、体全体を波のように前後に揺らして行なう」と言った。 弟子に対して「師の姿を遠くから見て、体全体の動きを観察するように」と言った。 また「押手は、鍼を打ったあと皮膚を拇指と示指で摘み上げて時計回りに回転させる、刺手は鍼を持ち手の重みでゆっくりと下してゆく。これによりどんな硬結にもすんなりと鍼は入ってゆく」と言っった。 住居は、江戸の日本橋濱町山伏井戸
?斎 石坂 宗哲(うさい いしざか そうてつ)(1770年(明和7年) - 1842年1月1日(天保12年11月20日))は、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の侍医を務め[1]、当時多数流派に分かれていた経穴(ツボ)を整理し、統合した。現代に繋がる針の基礎を作り、また、石坂流鍼術を創始した。名は永教、号は?斎(医学史家、呉秀三は当初宗哲の号を竿斎とみなしていたが、後に?斎と改正した、?とは竹の笛で勉学中家が貧しかったので市中を巡り按摩をして生活の糧としたので家宝とし号を?斎とした。
石坂 宗哲(宗圭)は、?斎石坂宗哲の娘婿で、初め宗圭を名乗った。
石坂 宗哲(その他)は、石坂宗哲の名跡を名乗った人で、町田栄治の著書に存在に確認できる。
?斎石坂宗哲
業績
住居
人間関係
家族
石坂志米一(石坂宗権、源与一)石坂家初代??斎宗哲の養祖父。越後の国小千谷の上杉家の家臣の家に生まれる。幼少のときに盲目となる。小千谷の当道座で按摩を学ぶ、後に江戸に行き杉山流鍼治導引稽古所で鍼灸を学ぶ。志米一は杉坂かの一に師事する、かの一は島崎とえ一に師事、とえ一は三島やす一に師事、やす一は杉山和一に師事する。徳川吉宗の時代の鍼医で検校(91番目)の地位(1733年)にまで昇った。1736年に西城の鍼科20口、西の丸、大奥の奥方、側室の治療にあたる。同年4月に将軍徳川吉宗に拝謁、日本橋四丁目に住む。延享2年(1745年)7月2日死去。戒名を寿仙院前石坂検校実翁宗権居士。杉山和一の十大弟子の一人。米山(男谷)銀一(米山検校、勝海舟の曽祖父)は志米一の弟子。
石坂宗鐵??斎宗哲の養父(石坂家二代目)。