石原詢子
出生名石原悦子
別名美風(吟号)
いとう冨士子(ペンネーム)
生誕 (1968-01-12) 1968年1月12日(56歳)
出身地 日本・岐阜県池田町
ジャンル演歌・歌謡曲、詩吟
活動期間1988年?
レーベルソニー・ミュージックダイレクト
事務所石原音楽事務所
公式サイト ⇒石原詢子公式サイト
石原 詢子(いしはら じゅんこ、1968年〈昭和43年〉1月12日 - )は日本の演歌歌手。岐阜県池田町出身。 詩吟家元の長女として誕生[1]。12歳で師範代となり、生徒への指導も行っていた[注釈 1]。小学5年生のときにテレビで石川さゆりの歌唱を目にして、将来は演歌歌手にという夢を持つ[2][3]。 歌手の道を父親に猛反対され[1]、@新聞配達をするA自活するB毎日実家に電話をするC20歳までにチャンスを掴めなければ実家に戻るという条件で、高校卒業と同時に上京[2][3]。新聞配達、うどん屋、コンビニ、居酒屋、レンタルビデオ店のアルバイトを掛け持ちして、歌のレッスンに通った[1][注釈 2]。居酒屋で働く際には「お酒の出るお店で働くなんて、とドキドキした」と当時を振り返っている[4]。 上京当初のアパートでは下着を盗まれることが何度もあり、半年で引っ越しをすることになった[5]。 翌夏には、森口博子主演のミュージカルに本名の石原悦子名義で出演。この縁から森口からは現在でも「えっちゃん」と呼ばれている[6]。 父親に「20歳までにチャンスを掴めなければ実家に戻る」ように言われていたが、20歳の誕生日を前に歌手デビューが決定。成人の日には岐阜に帰省し、家族にデビュー決定の報告をした[7]。1988年10月、CBSソニーより「ホレました」で歌手デビュー。キャッチフレーズは「演歌のアイドル(エンドル)」で、衣装も着物ではなくミニスカートだった[8]。デビュー後の数年間はテレビ出演もほとんどなく、全国のカラオケスナック、カラオケ喫茶をまわる日々を過ごした[9]。 1995年に「夕霧海峡」がヒットし頭角を現した[10]。しかし、同曲の発売日を挟んだ約2週のあいだに、かねてから心臓を患っていた両親が相次いで死去した。帰る場所をなくしたことで、歌手としての決意を新たにしたという[3]。 若手歌手として人気を伸ばし、1997年に長山洋子の後任としてNHK『どんとこい民謡』の司会に抜擢[注釈 3]。1998年より『コメディーお江戸でござる』に準レギュラー出演。娘役だけでなく、男役「詢吉」、タヌキ、妖怪(あまのじゃく)などもコミカルに演じた。 1999年、悲恋を明るい曲調で歌う「みれん酒」がヒット[11]。同曲はロングセールスとなり、翌2000年にNHK紅白歌合戦初出場を果たす。喜びの一方で、両親に晴れ姿を見せられない悔しさもあったと、のちに語っている。 2004年、第84回天皇杯全日本サッカー選手権決勝で国歌を独唱した。
来歴
生い立ち
上京
歌手デビュー
転機
人気演歌歌手に
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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