石原莞爾
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石原莞爾大佐(1934年)
渾名帝国陸軍の異端児
軍事の偉才
生誕1889年1月18日
日本山形県西田川郡鶴岡
死没 (1949-08-15) 1949年8月15日(60歳没)
日本・山形県飽海郡高瀬村
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1909年 - 1941年
最終階級 陸軍中将
除隊後立命館大学教授
墓所山形県飽海郡遊佐町菅里
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石原 莞爾(いしわら かんじ[注 1]1889年明治22年)1月18日戸籍の上では17日〉 - 1949年昭和24年)8月15日)は、日本陸軍軍人軍事思想家。最終階級は陸軍中将位階勲等功級正四位勲一等功三級[1][2]

帝国陸軍の異端児と呼ばれ、アジア主義日蓮主義の影響を受けた。『世界最終戦論』で知られ、関東軍板垣征四郎らとともに柳条湖事件満洲事変を起こした首謀者。二・二六事件では反乱軍の鎮圧に貢献したが、宇垣内閣組閣は流産に追い込んだ。後に東條英機との対立から予備役に追いやられる。東京裁判では病気や反東條の立場が寄与し、戦犯指定を免れた。

陸軍大学校教官、関東軍作戦主任参謀、同作戦課長、歩兵第4連隊長、参謀本部作戦課長、同第一部長、関東軍参謀副長、満洲国在勤帝国大使館附陸軍武官(兼任)、舞鶴要塞司令官、第16師団長などを歴任し、ドイツ駐在やジュネーヴ会議(英語版)随員も経験した。東亜連盟も指導し、予備役編入後は立命館大学国防学研究所所長も務めた。
生涯.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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幼少年時代幼少期の莞爾と二郎

明治22年(1889年)1月18日に山形県西田川郡鶴岡(現・鶴岡市)で誕生。但し戸籍上は1月17日となっている。

父親は警察官であり転勤が多かったため、転住を重ねている。幼年期は乱暴な性格であったが利発な一面もあり、その学校の校長が石原に試験をやらせてみると、一年生で一番の成績であった。石原の三年生の頃の成績を見てみると読書や算数、作文の成績が優れていた[3]。また、病弱でもあり、東北帝国大学付属病院に保管されていた石原の病歴を見てみると、小児時代に麻疹にかかり種痘を何度か受けている[3]

石原は子供時代から近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、小学生の友達と将来の夢について尋ねられると「陸軍大将になる」と言っていた[3]
軍学校時代青年期の莞爾と二郎

明治35年(1902年)、庄内中学二年次途中で仙台陸軍地方幼年学校予科)を受験して合格し、入校した。石原は、ここで総員51名の中で1番の成績を維持し学業は優秀だったが、器械体操剣術などの運動は苦手だった。

明治38年(1905年)には陸軍中央幼年学校本科)に入校し、基本教練や武器の分解組立、乗馬練習などの教育訓練を受けた。田中智学『妙法蓮華経』(法華経)に関する本を読み始めたのもこの頃である。成績は仙台地方幼年学校出身者の中では最高位であった。また、東京に在住していたため、乃木希典大隈重信の私邸を訪ね、教えを乞うている[4]

明治40年(1907年)、陸軍士官学校に入校した。区隊長への反抗や侮辱をするなど、生活態度が悪く、卒業成績は官報によると13番/418名(歩兵科では8番)であった。同期生からは飯村穰(2番、歩兵)、井出宣時(3番、歩兵)、町尻量基(4番、砲兵)、横山勇(8番、歩兵)、百武晴吉(9番、歩兵)、菅原直大(15番、歩兵のちに航空兵に転科)、冨永信政(16番、歩兵)、樋口季一郎(25番、歩兵)、安田武雄(26番、工兵)、平林盛人(32番、歩兵)など錚々たる軍人を輩出している。

明治43年(1910年)5月に士官学校(21期歩兵科)を卒業後は、歩兵第65連隊に復帰して、見習士官の教官として非常に厳しい教育訓練を行った。ここでは、軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、箕作元八の『西洋史講話』や筧克彦の『古神道大義』など、軍事学以外の哲学や歴史の勉学にも励んでいる。盛岡藩家老で明治新政府の外交官だった南部次郎(東 政図(ひがし まさみち))よりアジア主義の薫陶を受けていたため、明治44年(1911年)の春川駐屯時には、孫文大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて、共に「支那革命万歳」と叫んだという。陸大30期卒業生(石原は前列中央)

連隊長命令で、陸軍大学校を受験することになった。試験に合格し、大正4年(1915年)に入校することになる。ここでは、戦術学、戦略軍事史などの教育を受けた。大正7年(1918年)、陸軍大学校を次席で卒業した(30期、卒業生は60人)。


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