石原慶幸
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石原 慶幸広島東洋カープ バッテリーコーチ #81
現役時代
(2018年3月13日 マツダスタジアム
基本情報
国籍 日本
出身地岐阜県安八郡墨俣町(現:大垣市
生年月日 (1979-09-07) 1979年9月7日(44歳)
身長
体重177 cm
90 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション捕手
プロ入り2001年 ドラフト4巡目
初出場2002年10月5日
最終出場2020年11月7日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


岐阜県立岐阜商業高等学校

東北福祉大学

広島東洋カープ (2002 - 2020)

コーチ歴

広島東洋カープ (2023 - )

国際大会
代表チーム 日本
WBC2009年
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

獲得メダル
日本
ワールド・ベースボール・クラシック
2009

石原 慶幸(いしはら よしゆき、1979年9月7日 - )は、岐阜県安八郡墨俣町(現:大垣市)出身の元プロ野球選手捕手、右投右打)、プロ野球コーチ

愛称は「イシ」[1]、「うーたん」[2]
経歴
プロ入り前

岐阜県立岐阜商業高等学校では、2年夏に第78回全国高等学校野球選手権大会に出場。2回戦でPL学園とあたって敗退。3年夏にも第79回全国高等学校野球選手権大会に出場し、甲子園自身初安打も放ったが、1回戦で敗退した。高校通算57本塁打を記録している[3]。高校の2年後輩は、後に同僚となる青木高広がいる。

その後、東北福祉大に入学。吉見祐治洗平竜也木谷寿巳とバッテリーを組む。後に同僚となる大須賀允は同期。大学3年時に大学日本代表・シドニーオリンピック野球日本代表候補に選出された。4年秋はリーグ最優秀選手。ベストナイン捕手3回。

2001年のドラフト4巡目指名で広島東洋カープに入団した。背番号は31。
広島時代阪神甲子園球場にて

2002年は10月以降の消化試合で5試合の出場にとどまったが、初出場の対ヤクルトスワローズ戦で、石井弘寿から初安打を放った。

2003年はシーズン中から一軍出場機会が増え、2年目ながら116試合に出場。肩・打撃の衰えが見られる西山秀二の正捕手の座を脅かし、前年活躍した木村一喜をも抜き去る存在となった。打率は2割前後を推移したが、シーズン通算4本塁打のうち、2本が満塁、2ラン・3ランが1本ずつと良い場面での本塁打が多かった。強肩で知られる谷繁元信を超える盗塁阻止率も残した。

2004年は8番捕手でプロ入り初の開幕スタメンの座を掴むと、不振に終わった前年より安定感を増した打撃が評価され、西山から正捕手の座を勝ち取った。シーズン終了までほぼ全試合に出場した。自身初の規定打席に到達し、135試合出場、打率.288、6本塁打と好成績を残した。

2005年はオープン戦でファウルを打った際に左手有鈎骨を骨折し、春先は出場できなかった。5月末に復帰後はスタメン捕手として起用されたが、打撃で足踏み状態が続き、目立った活躍は8月2日の対巨人戦でサヨナラ打を打った程度であった。守備でも8月9日の対ヤクルト戦で、振り逃げのリック・ガトームソンに気を取られ、三塁走者アダム・リグスに背を向けて一塁に緩慢な送球を行っている間に、リグスにホームインを許すなど精彩を欠いた。結局8月中旬以降は、自身の故障中に起用されていた倉義和に再び正捕手の座を奪われた。

2006年は倉と併用される形で捕手を務めた。この年は倉も打率.239と不振で、石原も開幕直後こそ打撃好調であったが、5月から不調に陥り、打率.221に終わった。得点圏打率は1割を下回り、満塁では6打数無安打(4併殺打)と勝負弱さが目立った。5月31日の対西武ライオンズ戦でスクイズプレイを敢行するもピッチアウトされ、ジャンプしたもののバットにボールが当たらず失敗に終わっている。8月12日の対巨人戦では、前年に続きサヨナラ打を放っているが、信頼を掴むには至らなかった。9月7日の対横浜戦において、10回裏2死満塁打者佐伯貴弘の4球目に、31年ぶりとなるサヨナラ打撃妨害を犯した。この日は本人の誕生日で、レフトスタンドからも第一打席でハッピーバースデーの歌で祝福されただけに、何とも味の悪い誕生日になった。石原は「永川に申し訳ない。どうのこうの言えない」と肩を落とした。ブラウン監督は「あんなプレーは初めて見た。あってはならない。また明日!また明日!」と気持ちを切り替えていた。

2007年は前年に続き倉と併用される形が続き、スタメン機会はほぼ半々だった。5月8日の対中日ドラゴンズ戦では中継ぎ投手の負担軽減のため、ブルペンで投球練習を行ったこともあった。登板はなかったが、今後も同様な場面があった場合の登板を示唆されていた。5月26日の対福岡ソフトバンクホークス戦の同点の八回に、顔付近に来た球にのけぞって尻もちをつきながらも、三塁方向にスクイズ成功。チームの交流戦初勝利に貢献した。5月から6月までは打撃好調で、2004年に次ぐ打率.281の好成績を残した。しかし今度は倉も8月以降打撃が上向いて打率.274を記録し、8月にはスタメン捕手の座を譲ることも多かった。10月1日の対中日戦の8回裏1死3塁の場面、初球からスクイズを敢行するがピッチアウトされ、前年の対西武戦で外された時よりも更に大きくジャンプしたものの届かず失敗に終わった。

2008年2004年以来となる開幕スタメンの座を掴むと、倉の打撃不振もあり、出場機会を増やし4年ぶりの100試合出場、規定打席到達となった。打撃でも勝負強さを見せ、6番を任される試合もあった。本塁打と打点は自身最高の数字を残した。

2009年は開幕前の3月に開催された第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表に選出された。第一次の東京ラウンドでは出場機会はなかったが、サンディエゴでの第二次ラウンド韓国戦で初出場を果たした。登録メンバーの野手でただ一人打席に立つ機会がなかった。
WBC終了後、チームに合流するとキャプテンに任命される。シーズンでは、新本拠地であるマツダスタジアム開催の恩恵もあり、マツダオールスターゲームに初めてファン投票で選出された。しかし、シーズンでは開幕から打率2割にも満たない極度の打撃不振に陥る。ライバルである倉も打撃不振だったためにレギュラー固定され続けたが、調子は一向に上がらず、一時は1982年の山倉和博以来となる「規定打席到達での1割打者」となる可能性も取り沙汰されていた。8月29日の横浜ベイスターズ戦で2打席連続本塁打、1試合5打点と意地の活躍を見せた[4]


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