石原恒和
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石原 恒和(いしはら つねかず、1957年11月27日 - )は、ゲームプロデューサー、ゲームクリエイター

株式会社ポケモン代表取締役社長・CEO。株式会社クリーチャーズ ファウンダー。一般財団法人ポケモン・ウィズ・ユー財団 代表理事 理事長。『ポケットモンスター』関連のビジネスを手掛ける中心人物である。田尻智が『ポケットモンスター』の「生みの親」であるなら、石原は『ポケットモンスター』というコンテンツを成熟させた「育ての親」と言える。
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三重県鳥羽市小浜町出身。三重県立伊勢高等学校を経て、1980年筑波大学芸術専門学群総合造形(Plastic Art and Mixed Media)卒業、1983年筑波大学大学院芸術研究科修了。在学中は最新CGによる映像表現の仕組みを学び、その後、ビデオ・アートやコンピュータアートに関わるようになる。1980年代から大学でCGを学んだのは、後のゲーム関係者としてはかなり早い時代での取り組みである[1]

1983年、西武セゾングループ広告代理店・株式会社SPNに入社、その後、合併によってできた株式会社I&Sへ移る。

1985年、日本でのCGプロダクションの草分け的存在であった株式会社セディックに移籍。コンピュータソフト開発・テレビ番組プロデュースを手がけるようになる。セディック在職中の主なプロデュース作品は、フジテレビの深夜番組『浅田彰の電視進化論』や『TV's TV』、『糸井重里の電視遊戯大展覧会』、など。これらを制作する中で、糸井重里すぎやまこういち、田尻智らの協力を得る。

1987年、メディア・アーティストの岩井俊雄とサイトロン・アンド・アート社と共にファミコンソフト(ディスクシステム用)『オトッキー』を開発し、アスキー社から発売。

1988年、単行本『テレビゲーム?電視遊戯大全』(UPU刊)の出版に際し、企画から執筆、完成まで総監督として指揮をとった。

1990年、テトリスの開発者であるアレクセイ・パジトノフ、任天堂と共に、ファミコンソフト(ディスクシステム用)『ナイトムーブ』を開発し、任天堂から発売。音楽は田中宏和が手がけている。

1991年、チュンソフトとゲームデザイナー三浦明彦らと共に、ファミコン用ソフト『テトリス2+ボンブリス』を開発し、BPS及び任天堂より発売。海外版は『TETRIS BLAST』という名称で発売された。

1991年、糸井重里が代表を務める株式会社エイプに入社。入社後は、『ヨッシーのたまご』(開発はゲームフリーク)や『MOTHER2 ギーグの逆襲』(開発はハル研究所)、『マリオのピクロス』(開発はジュピター)などのプロデューサーを務めた。

1993年、任天堂、ゲームフリークと共にマウスでプレイするスーパーファミコンソフト『マリオとワリオ』を開発し任天堂より発売。

1995年、エイプを退社し、株式会社クリーチャーズを設立。

1996年任天堂ゲームフリークと共にゲームボーイソフト『ポケットモンスター 赤・緑』を開発し任天堂より発売。以降、ポケモンソフト全作品にプロデューサーとして携わり、トレーディングカードゲーム「ポケモンカードゲーム」を、ゲームデザイナーである大山功一、三浦明彦らと開発し発売。

1997年、アンブレラと音声認識デバイスを同梱したNINTENDO64用ソフト『ピカチュウげんきでちゅう』を開発し任天堂より発売。

1998年、ポケモン関連のグッズを販売する会社であるポケモンセンター株式会社(現・株式会社ポケモン)を設立し代表取締役社長に就任。任天堂と64GBパックを同梱したNINTENDO64用ソフト『ポケモンスタジアム』を開発し発売。その後、スタジアム2、スタジアム金銀、などの続編も発売。ジュピターと「ポケットピカチュウ」を開発し任天堂より発売。ハドソンとゲームボーイ用ソフト『ポケモンカードGB』を開発し任天堂より発売。

1999年、ノイズとNINTENDO64用ソフト『カスタムロボ』を開発し任天堂より発売。ジュピターとゲームボーイソフト『ポケモンピンボール』を開発し任天堂より発売。ロムカセット基板に振動素子を搭載したハプティクス導入ゲームとして注目された。後の『ポケモンGOプラス』にもハプティクスの考え方が活かされている。後継ソフト『ポケモンピンボール ルビー&サファイア』では、振動素子は採用されなかったが、ゲームボーイプレイヤーでニンテンドーゲームキューブ用コントローラを使った場合に振動するように設計されていた。ハル研究所とNINTENDO64用ソフト『ポケモンスナップ』を開発し発売。

2001年、Pokemon USA,Inc.(現 The Pokemon Company International)を設立任天堂とポケモン専用ハード「ポケモンミニ」を開発し発売。『ポケモンパーティミニ』、『ポケモンピンボールミニ』、『ポケモンショックテトリス』など10種類のソフトが発売された(開発はジュピター)。『ポケモンショックテトリス』ではペントミノ(5つの正方形ブロック)が登場するモードがあった。

2003年、ジニアスソノリティとニンテンドーゲームキューブ用ソフト『ポケモンコロシアム』を開発し発売。その後、続編『ポケモンXD 闇の旋風ダーク・ルギア』、『ポケモンバトルレボリューション(Wii用)』も発売。任天堂と「ポケモーション」を開発し発売。

2004年、ゲームボーイアドバンス用ワイアレスアダプターを同梱した『ポケットモンスター ファイアレッド・リーフグリーン』を任天堂、ゲームフリークと開発し任天堂より発売。これによりポケモンのバトルや交換が通信ケーブルでなくワイアレスでできるようになった。アンブレラとニンテンドーDS用ソフト『ポケモンダッシュ』を開発し発売。

2005年、チュンソフトと『ポケモン不思議のダンジョン 青の救助隊・赤の救助隊』を開発し発売。その後、ポケモン不思議のダンジョンシリーズとして、後継ソフトを次々と発売。ジニアスソノリティとDS用ソフト『ポケモントローゼ』を開発し発売。

2006年、ハル研究所、クリーチャーズと『ポケモンレンジャー』を開発し発売。その後、『ポケモンレンジャー バトナージ』、『ポケモンレンジャー 光の軌跡』などの続編も発売。

2008年、株式会社クリーチャーズ 代表取締役会長に就任。

2009年、クリーチャーズとWIi用ソフト『ポケパークWii ?ピカチュウの大冒険?』を開発し発売。2011年に続編『ポケパーク2 ?Beyond the World?』も発売。アンブレラとWiiウェアソフト『乱戦!ポケモンスクランブル』を開発し発売。その後、続編として3DS版『スーパーポケモンスクランブル』、Wii U版『ポケモンスクランブルU』、3DS版『みんなのポケモンスクランブル』がある。

2011年、株式会社ポケモンセンタートウキョー(現 株式会社ポケモンセンター)を設立。

2011年、任天堂、ジニアスソノリティとDS用ソフト『バトル&ゲット!ポケモンタイピングDS』を開発し発売。同梱のワイヤレスキーボードは、Bluetoothキーボードとして様々なデバイスと接続して利用することができた。

2012年、コーエーテクモゲームスとニンテンドーDS用ソフト『ポケモン+ノブナガの野望』を開発し発売。

2015年、バンダイナムコゲームスとWii U版『ポッ拳』を開発し発売。ジニアスソノリティと3DS用ソフト『ポケとる』を開発し発売。半年後にAndroid版、iOS版も発売。ジュピターと3DS版『ポケモンピクロス』を開発し発売。

2016年、クリーチャーズと3DS用ソフト『名探偵ピカチュウ ?新コンビ誕生?』を開発し発売。HEROZと『ポケモンコマスター』(Android、iOS)を開発し発売。Niantic, Inc. と「Pokemon GO」を開発し発売。任天堂と「ポケモンGOプラス」を開発し発売。

2017年、セレクトボタンと『はねろ!コイキング』を開発しAndroidとiOSで発売。AIスピーカー向けのオリジナルアプリケーション『ピカチュウトーク』を開発。自身がプロデュースした、ポケモン関連ゲームソフトの出荷本数が世界累計3億本を突破した。

2018年、日本橋に、初のカフェ併設店舗「ポケモンセンタートウキョーDX & ポケモンカフェ」を開店。同カフェは開店から6ヵ月で来店者数10万人を突破した。イギリスの美術系大学 ロイヤル・カレッジ・オブ・アートに、創造的なアートやデザインの力でこれからの時代を切り拓く学生たちを支援することを目的として、「ポケモンスカラシップ」を設置した。

2019年、ポケモン関連商品を扱うオフィシャルショップ「ポケモンセンターシンガポール」がチャンギ空港内の商業施設「JEWEL」に開店、同店は日本を除くアジアでは初となる常設店舗である。製作総指揮を務めた映画『名探偵ピカチュウ』が世界公開される。DeNAと『ポケモンマスターズ』(AndroidとiOS)を開発し発売。Nintendo Switch用ソフト『ポケットモンスター ソード・シールド』を発売。

2020年、LITALICOと『ポケモンスマイル』(Android、iOS)を開発し配信。ポケモン初の有料追加ダウンロードコンテンツとして『ポケットモンスター ソード・シールド エキスパンションパス』を発売。金沢に「ポケモンセンターカナザワ」を開店。「すべてのポケモンが集まる場所」をコンセプトに『Pokemon HOME』のサービスを開始。海外事業をプロデュースするため、中国・上海に関連会社宝可梦(上海)玩具有限公司を設立。

2021年、ポケモンらしい社会貢献活動を持続的に行うことを目的とした、一般財団法人ポケモン・ウィズ・ユー財団を設立し、代表理事 理事長に就任。

2022年、自身がプロデュースしたシリーズ初のオープンワールド作品、Nintendo Switchソフト『ポケットモンスター スカーレット・バイオレット』が、発売後3日間で世界累計販売本数1000万本を越えた。

2023年4月1日、株式会社クリーチャーズ代表取締役会長を退任、取締役に就任。

2023年7月、SELECT BUTTONと『Pokemon Sleep』(Android、iOS)を開発し、配信。

2023年5月、株式会社クリーチャーズ取締役を退任、ファウンダーとして、経営に関わる。

現在は、主に株式会社ポケモンにおいて、ゲーム、カードゲーム、テレビアニメ、劇場映画、などポケモン全体のブランドマネジメントを手がける。
人物

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「幼少時、父が忙しい仕事の合間を縫って囲碁や将棋を教えてくれた。やはり二人で競技する遊びやゲームは、人間的なコミュニケーションを深めるために、どんなしかけがしてあるかが大切。単に勝ち負けだけではなく、その後で『あしたも一緒に遊ぼう』と言えるような関係ができていくことがポケモンにとって、一番いいありかただと思う。対戦前に握手をして、仮に負けた場合でも、もういちど握手をして『ありがとう』と言えることが一番カッコいい。(子供たちに)そうなって欲しい。」と語っている[2]

「好きであれば、どんなに大変なことでも楽しんでやれるタイプ」と自己分析しており、お気に入りのポケモンのキャラクターはナッシーで「ポケモン赤・緑」の開発でデバッグ用にずっと使っていた、最もつきあいの長いポケモンだから」と語っているが、ポケモン・ブラック・ホワイト以降では「好きなポケモンは蛇の一種にみえるツタージャで、姿に気品があるから」とも語っている。また、別の場面では「一番好きなポケモンは、もちろんピカチュウ」との発言もある。

2017年の株式会社ポケモンの会社案内で、ポケモンと株式会社ポケモンについて以下のように語っている。

「ポケモンが描く冒険世界は、現実世界に近く、私たちが慣れ親しんでいる地理や地形から類推可能でありながら、もうひとつの別の世界を形成していて、ポケモンを探したり交換したりする行為によって、現実世界と仮想世界の交通を促し、双方が豊かになるような仕組みを目指しています。1996年に発売された『ポケットモンスター 赤・緑』から、この「閉じていない遊び」のコンセプトは変わっていません。」

「株式会社ポケモンという社名が表している通り、わが社はポケモンのことだけをやる会社です。ポケモンの冒険世界と私たちの現実世界が、より多様で、楽しい遊びの場所であり続けるために、常に新しい挑戦をしています。そして、ポケモンの事業を通じて利益が出たら、それはすべてポケモンのために再投資しています。未来の、より魅力的なポケモンのために。そういう意味では、とてもわかりやすい、シンプルな会社と言えるかもしれません。」


『ポケモン』と『信長の野望』(コーエーテクモゲームス)がコラボレーションした『ポケモン+ノブナガの野望』においては自身も深く制作に関わり陣頭指揮をとる。襟川陽一氏(コーエーテクモゲームス社長)との対談インタビューでは、「どんな人でも一生のうちにひとついい曲を作る、いい詞を書くという可能性はある。では、それを100作れるかと言うと、普通は作れない。そのレベルを維持して数こなせる人がプロ。」「開発者の場合は、この“並大抵ではない好き”という気持ちが重要で、そういう人を探し続けることが、コンテンツ企業にとっては非常に重要」と述べている[3]

ニンテンドーDSソフト『ポケットモンスターブラック2・ホワイト2』を発売直前、「いままでと同じパターンを予測されているお客さんが多かったが、気持ちよく裏切る意味でも、はじめて『2』とタイトルがつくものに挑戦。驚きが今回の商品の新しさだと思う。『強い』『かわいい』など、(ファンが)多様な理由でポケモンを好きになってくれるところが、ポケモンの魅力。商品開発においても新鮮さを発見し発明しつづけることが大事」と語っている[4]

(『ポケモン不思議のダンジョン マグナゲートと∞迷宮』のダウンロード版販売に関して)「カートリッジを持ち歩かなくていいというのはすごく便利で、ダウンロード販売の意味は十分にあると感じた。もちろん、パッケージ販売を否定するわけではない。『物理的にソフトを持っていたい』という想いもよくわかる。ただ、いろいろなソフトの流通形態としては、両方の購入方法があったほうが親切だろう、と考えている」と語っている[5]


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