石原恒和
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石原 恒和(いしはら つねかず、1957年11月27日 - )は、ゲームプロデューサー、ゲームクリエイター

株式会社ポケモン代表取締役社長・CEO。株式会社クリーチャーズ ファウンダー。一般財団法人ポケモン・ウィズ・ユー財団 代表理事 理事長。『ポケットモンスター』関連のビジネスを手掛ける中心人物である。
来歴.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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三重県鳥羽市小浜町出身。三重県立伊勢高等学校を経て、1980年筑波大学芸術専門学群総合造形(Plastic Art and Mixed Media)卒業、1983年筑波大学大学院芸術研究科修了。在学中は最新CGによる映像表現の仕組みを学び、その後、ビデオ・アートやコンピュータアートに関わるようになる。1980年代から大学でCGを学んだのは、後のゲーム関係者としてはかなり早い時代での取り組みである[1]

1983年、西武セゾングループ広告代理店・株式会社SPNに入社、その後、合併によってできた株式会社I&Sへ移る。

1985年、日本でのCGプロダクションの草分け的存在であった株式会社セディックに移籍。コンピュータソフト開発・テレビ番組プロデュースを手がけるようになる。セディック在職中の主なプロデュース作品は、フジテレビの深夜番組『浅田彰の電視進化論』や『TV's TV』、『糸井重里の電視遊戯大展覧会』、など。これらを制作する中で、糸井重里すぎやまこういち田尻智らの協力を得る。

1987年、メディア・アーティストの岩井俊雄とサイトロン・アンド・アート社と共にファミコンソフト(ディスクシステム用)『オトッキー』を開発し、アスキー社から発売。

1988年、単行本『テレビゲーム?電視遊戯大全』(UPU刊)の出版に際し、企画から執筆、完成まで総監督として指揮をとった。

1990年、テトリスの開発者であるアレクセイ・パジトノフ、任天堂と共に、ファミコンソフト(ディスクシステム用)『ナイトムーブ』を開発し、任天堂から発売。音楽は田中宏和が手がけている。

1991年、チュンソフトとゲームデザイナー三浦明彦らと共に、ファミコン用ソフト『テトリス2+ボンブリス』を開発し、BPS及び任天堂より発売。海外版は『TETRIS BLAST』という名称で発売された。

1991年、糸井重里が代表を務める株式会社エイプに入社。入社後は、『ヨッシーのたまご』(開発はゲームフリーク)や『MOTHER2 ギーグの逆襲』(開発はハル研究所)、『マリオのピクロス』(開発はジュピター)などのプロデューサーを務めた。

1993年、任天堂、ゲームフリークと共にマウスでプレイするスーパーファミコンソフト『マリオとワリオ』を開発し任天堂より発売。

1995年、エイプを退社し、株式会社クリーチャーズを設立。

1996年任天堂ゲームフリークと共にゲームボーイソフト『ポケットモンスター 赤・緑』を開発し任天堂より発売。以降、ポケモンソフト全作品にプロデューサーとして携わり、トレーディングカードゲーム「ポケモンカードゲーム」を、ゲームデザイナーである大山功一、三浦明彦らと開発し発売。

1997年、アンブレラと音声認識デバイスを同梱したNINTENDO64用ソフト『ピカチュウげんきでちゅう』を開発し任天堂より発売。

1998年、ポケモン関連のグッズを販売する会社であるポケモンセンター株式会社(現・株式会社ポケモン)を設立し代表取締役社長に就任。任天堂と64GBパックを同梱したNINTENDO64用ソフト『ポケモンスタジアム』を開発し発売。その後、スタジアム2、スタジアム金銀、などの続編も発売。ジュピターと「ポケットピカチュウ」を開発し任天堂より発売。ハドソンとゲームボーイ用ソフト『ポケモンカードGB』を開発し任天堂より発売。

1999年、ノイズとNINTENDO64用ソフト『カスタムロボ』を開発し任天堂より発売。ジュピターとゲームボーイソフト『ポケモンピンボール』を開発し任天堂より発売。ロムカセット基板に振動素子を搭載したハプティクス導入ゲームとして注目された。後の『ポケモンGOプラス』にもハプティクスの考え方が活かされている。後継ソフト『ポケモンピンボール ルビー&サファイア』では、振動素子は採用されなかったが、ゲームボーイプレイヤーでニンテンドーゲームキューブ用コントローラを使った場合に振動するように設計されていた。


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