石原 広一郎(いしはら ひろいちろう、1890年(明治23年)1月26日 - 1970年(昭和45年)4月16日)は、日本の実業家で石原産業の創業者。
京都府京都市生まれ。1913年立命館大学法科専門部卒業。1916年にマレー半島に渡航し鉄鉱山の発見・開発に成功。東南アジア各地や日本国内での鉱山開発や、海運業へ事業を拡大した。1931年の満州事変勃発後、南進論提唱の好機が到来したとして日本に帰国し政治活動を展開、国家主義的団体神武会・明倫会を創立して世論を喚起し、二・二六事件では叛乱軍に資金を提供して逮捕された。戦後、A級戦犯容疑で巣鴨に拘禁されるも不起訴となり釈放された。 1890年(明治23年)京都府京都市に生まれる。農業を営む父・石原長太郎を手伝いながら15歳で京都府立農林学校に入学。卒業後は京都府庁に入庁し、農業技手として勤務した。その後、働きながら高等文官試験を目指し私立京都法政大学専門部法律学科(夜間)に入学、中川小十郎に師事し、1913年に卒業。 1919(大正8)年、バトゥパハのスリメダン
略歴
生い立ち
マレー行(英語版
鉄鉱山開発
1924(大正13)年にはマレー半島東岸・トレンガヌ州ケママン(英語版)の太陽鉱山に着目し、同年6月にトレンガヌ州からケママン港の開港許可を受けた[13]。翌1925(大正14)年に大蔵省から低利融資を受けて太陽鉱山を買収し、同鉱山の開発を進めた[14][15]。その後、鉱石の自家輸送のため船舶を所有して海運業に進出[16]、石原産業海運を中核に石原コンツェルンを形成。更に錫鉱業に関与し、1935年以降はアルミニウムの原料となるボーキサイトを発見・開発し日本に供給した[15]。 ジョホールでは石原の鉱山がゴムに次ぐ税収源となったこともあり、スルタンの厚遇を受けたが、英国の規制の制約があり、またスマトラやボルネオ、ジャワ、セレベスなど蘭印の開発ではオランダと対立、南方での鉱山開発には植民地宗主国の法規制に左右されるという不安定さが伴っていた[17]。 1931年9月満州事変が起こると、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}インドシナの開発には軍部の力が必要だと考えていた石原は、[要出典]「南進論」を主張して「アジア人のアジア」を実現する絶好の機会が来たとして、日本に帰国[14]。 帰国後、南進の目的達成のためには国内政治の改革が先決だと考えるようになり、徳川義親とともに大川周明らの神武会結成を支援[18][19]。1932年5月の5.15事件と前後して、大川の急進主義的な方針とは一線を画した明倫会を設立し、会社経営の傍ら、右翼団体を後援した[20]。 1936年の二・二六事件では、明倫会の斎藤瀏を介して首謀者の1人である栗原安秀中尉を資金面で援助した[21]。事件が発生すると、栗原に徳川と共に宮中に参内することを提案、反乱士官に自決を勧めるなどの[要出典]収拾工作を行った[21]。同年6月13日に逮捕され[22]、代々木の陸軍衛戍刑務所に[要出典]収監されるも[23]、1937年1月18日に無罪となった[24]。 1934年から1941年にかけて、石原産業海運は合資会社から株式会社となり、マレーからジャワ、フィリピン、海南島へ開発鉱山を拡大[25]。鉄鉱石の他に、錫、ボーキサイト、石炭なども取扱うようになった[25]。日本国内でも、兵庫県の神美金山、大分県の旭金山、三重県の紀州鉱山などを開発、四日市工場を新設した[25]。
南進論
事業の展開