株式会社 石原プロモーション
Ishihara International Productions, Inc.種類株式会社
略称石原プロ
本社所在地 日本
〒182-0024
東京都調布市国領町1丁目34番地18
設立1963年1月16日
業種サービス業
法人番号9012401007283
事業内容芸能事務所、番組制作会社
代表者代表取締役会長 石原まき子[1]
資本金3000万円
純利益2374万8000円(2017年12月31日時点)[2]
総資産47億0709万4000円(2017年12月31日時点)[2]
従業員数30人(所属タレントを除く)
主要子会社石原音楽出版社
石原インターナショナル
アイ・ビー・エフ
石原ミュージック
石原裕次郎記念館
関係する人物石原裕次郎
渡哲也
舘ひろし
神田正輝
小林正彦
外部リンク石原プロモーション
特記事項:2021年1月16日解散。2022年6月23日法人格消滅、清算結了。
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株式会社石原プロモーション(いしはらプロモーション) は、日本にかつて存在した芸能事務所兼制作プロダクション。略称・通称は「石原プロ」。また、所属タレントの面々は『石原軍団』(いしはらぐんだん)の愛称で広く親しまれていた。
芸能事務所・制作プロダクションであるが、プロデュースやマネジメントが中心の他のプロダクションと違い、撮影用機材や技術クルーを自社で保有し、自社を「映画製作会社」と名乗っていた。このスタンスにより、所属俳優も「映画会社の専属俳優」という立場にあった。 石原裕次郎は所属していた映画会社である日活とは別に、水の江瀧子と「石原商事」を経営していたが、1963年(昭和38年)1月16日に個人事務所(プライベートオフィス)として設立され、浅丘ルリ子など、日活出身の俳優が所属した。 1963年から1973年(昭和48年)にかけて、大手映画会社に出来ない作品を作るという理想のもとに『太平洋ひとりぼっち』『黒部の太陽』『栄光への5000キロ』など、裕次郎主演映画を中心に多数の映画を製作。特に1967年(昭和42年)から1969年(昭和44年)にかけては、黛ジュンの活躍によって一時的に経営が潤ったが、収益を自社製作映画の膨大な製作費に充てていた状況で、映画産業の斜陽化の煽りも受け、『甦える大地』や『ある兵士の賭け』など興行的に失敗した作品も多かった[注 1]。会社存続が危ぶまれ、8億円(当時)近い負債を背負った。 会社存続が危ぶまれた当時、裕次郎を慕っていた日活の後輩である渡哲也を皮切りに俳優が所属するようにもなり、彼らのマネジメントを手掛けた。 1972年(昭和47年)、テレビへの過小評価から頑なにテレビドラマ出演を拒否していた裕次郎だが、俳優である前に社長であり社員の生活を考えるべきだと周囲の強い説得で嫌々ながらもテレビドラマ『太陽にほえろ!』(東宝・日本テレビ)にて主演する。番組は反響と高視聴率を獲得し、テレビが持つ影響力の大きさを身をもって体験したことがもとで、活動の軸足を映画からテレビに移していくこととなる。 会社の再建のため、また自分が愛してやまない映画をもう一度作りたいという想いから、自社でテレビドラマ『大都会』及び『西部警察』シリーズを製作して人気を集め、負債を完済したのみならず約30億円に上る資産を築き、再建に成功した。しかし本来の目的であった映画製作は、1993年(平成5年)公開の『欽ちゃんのシネマジャック』向け短編が最後となり[注 2][注 3]、テレビドラマの制作も2009年(平成21年)が最後となった。 1987年(昭和62年)に死去した裕次郎の遺言は「俺が死んだら即会社をたたみなさい」だったが、まき子夫人が所属俳優やスタッフに言い出せなかったため、石原プロモーションはそのまま存続した[4]。 裕次郎亡き後は、副社長の渡が社長に昇任し、所属俳優の神田正輝・舘ひろしも共に取締役に就任。専務取締役には「コマサ」こと小林正彦が長年にわたり務めていた(詳しくは本人の項を参照)。 1991年(平成3年)には北海道小樽市で石原裕次郎記念館が開館した。また、1999年(平成11年)から2001年(平成13年)にかけて小樽市のマイカル小樽内で石原プロワールド・西部警察というミニパークを運営していた。 過去に製作された作品はいずれも二次利用の機会が少なく、断片的な形でのリリースとなった『西部警察』や、自社の版権が失効している『太平洋ひとりぼっち』『ゴキブリ刑事』などを除いてソフト化されていないものが大半を占めていた。地上波以外での再放送もDVDと同様の傾向が見られたが[注 4]、2007年(平成19年)に日本テレビ系の専門チャンネルである日テレプラスで『大都会』シリーズが放送されて以降は、衛星放送を中心に自社作品の再放送が活発化した。 芸能マネージメント業務の一方、後述の「炊き出し」や「『1億人の心をつかむ男』新人発掘オーディション」、国立競技場での裕次郎二十三回忌法要など大規模イベントをたびたび開催し、その派手さが話題となった。また、初代林家三平一門との交流があり[注 5]、林家正蔵の大規模な襲名お練り・パレード[5]を石原プロが機材等で全面的にバックアップした。当日の人出は14万人[6]。林家三平の襲名披露両国国技館公演なども成功させた。これらの大規模イベントを行ってきたのは「裕次郎の凄さを伝え続けるためには、スケールの大きさにはこだわり続けなければいけない」という方針からのものだった[7]。
歴史
創業
映画製作と会社の危機
テレビへ進出
渡哲也社長時代
石原まき子会長時代へ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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