石勒
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明帝 石勒
後趙
初代皇帝
王朝後趙
在位期間319年 - 333年
都城襄国
姓・諱?→石勒
字世龍
諡号明皇帝
廟号高祖
生年泰始10年(274年
没年建平4年7月21日
333年8月17日
父周曷朱
王氏
后妃劉皇后
陵墓高平陵
年号太和 : 328年 - 330年
建平 : 330年 - 333年

石 勒(せき ろく)は、五胡十六国時代後趙の創建者。

幼年は西晋の皇族に売られて奴隷にもなったが、反乱に協力して匈奴の漢(後の前趙)の有力な部将となった。319年、皇帝の劉曜と対立するようになると後趙を建国し、329年に劉曜を捕らえて前趙を滅ぼした。華北の大部分を征した石勒は強盛な国家を築いた。また、西域の僧の仏図澄を厚遇して仏教の伝播に貢献した。死後は子の石弘が継いだが従子の石虎が簒奪した。
生涯
出自

当初、石勒は姓を持たず、名は単に「?」であった[注 1]274年羯族の部落小帥の周曷朱の子として并州上党郡武郷県(現在の山西省晋中市楡社県の北西)に生まれた。凶暴であった父の周曷朱に対し、?は壮健で胆略があり騎射を好んだため父の代理を務め、部人から信頼された[1][2]

当時の羯族は経済的に困窮し、300年前後の太安年間には并州の飢饉戦乱に遭って部落離散していた。?も流浪の旅に出ざるを得ず、旧知の漢人の郭敬を頼り、飢えた胡人を売ることを提案した。しかしその途中で他の胡人と共に西晋の東?公司馬騰に軍資金のために捕らえられて山東で売られた。?は?平の師懽という者の奴隷にされたが、師懽は?の異常な容貌を認めて自由の身とした[3]。この時、師懽の隣の馬牧場の汲桑と親しくなった。また、群盗となって石勒十八騎のうち最初の八騎を従えたのもこの頃である[2]
八王の乱

永興2年(305年)、西晋では八王の乱が起きており、?と汲桑は数百騎を率いて成都王司馬穎の配下の公師藩と合流した。この頃、汲桑から石姓をつけてもらい、名を勒と改めた[2][3]。石勒ら公師藩は?を攻めたが、范陽王司馬?が部将のにこれを討たせると奔走した[3]。司馬穎が東海王司馬越・東?公司馬騰らによって処刑されると、死んだ公師藩の後を継いだ汲桑は永嘉元年(307年)に苑中に帰還して掠奪をし、大将軍を自称して司馬穎の復仇を名目に反乱を起こした[3]。石勒は汲桑のもとで前駆として活躍して掃虜将軍・忠明亭侯となった。汲桑らは?に入城して、司馬騰が軽騎で逃げたところを汲桑の部将が殺した。?宮を焼き、士民を万余人殺し、大いに掠奪し、さらに延津を渡って南の?州を攻撃すると、太傅の司馬越が苟晞らにこれを討たせた[3]。石勒は苟晞と戦ったが、万余人の死者を出す大敗をすると、汲桑は馬牧に、石勒は楽平に奔走した(汲桑は平原で斬られた[2])。
漢への帰順

永嘉元年(307年)10月、石勒は上党の胡人の部族長を伴い、匈奴劉淵が興した漢(後の前趙)に帰順して輔漢将軍・平晋王とされた[3][4]。当時、劉淵は漢王であると共に匈奴の大単于でもあった。石勒より2カ月遅れて帰順した王弥が漢の東?公を授けられたのに対して、石勒が匈奴の称号[注 2]の一つとして平晋王を授けられたのは彼が一定の評価をされていたからと考えられる[4]。劉淵の招致に応じなかった烏桓の張伏利度の衆2千を心服させて帰順させると、都督山東征討諸軍事を加えられた[3][4]
漢の武将として

永鳳元年(308年)、劉聡の先鋒となって壷関を陥落させた。劉淵が皇帝を名乗ると平東大将軍となった。この頃に漢人の張賓が陣営に加わった。河瑞元年(309年)、劉淵から安東大将軍とされて開府した。鉅鹿常山を攻め、君子営を作って漢人の知識人を集め、張賓を謀主とし、十八騎の多くが軍の指揮官となった。その後、鎮東大将軍に進められ、合わせて汲郡公に封じようとしたが、郡公に関しては辞退した。当時、石勒は漢の臣下としての官爵を未だに受けていなかったが、劉淵はそれを咎めることが出来ない程の勢力を築き上げていた(ただし、晋との戦い中であることも考慮する必要がある)[5]

光興元年(310年)に劉淵が死去して劉聡(昭武帝)が即位すると并州刺史となり、汲郡公に封じられた。政変によって皇位に就いた劉聡にとってそれまで漢の官爵を受けなかった石勒が官爵を受けたことは大きな政治的成果であり、反対に石勒にとっても劉聡を支持する姿勢をみせることで漢との関係の安定化を図る意図があったと考えられている[5]嘉平元年(311年)、東海王司馬越の葬列を襲い、司馬越の子で鎮軍将軍の司馬?ら西晋軍の主力を壊滅させ、孔萇の進言に従い、司馬?を捕獲し太尉王衍など軍高官や王侯100人以上を含む10万人近くを殺害した。

同年、大将軍の苟晞を殺害し、さらに対立した王弥を殺してその部下を併せたが、江南地方への侵攻は失敗した。江南の攻略中には、劉?が生き別れの母および、石勒の従子の石虎を送り届けて晋への帰順を促したが、石勒は丁重に応対したものの帰順は拒否した。嘉平2年(312年)、上党郡公に改められ、襄国に拠点を移した。嘉平4年(314年)、幽州王浚を殺害するが、段匹?に入り以降は対立した。劉聡から驃騎大将軍・東単于とされた。嘉平5年(315年)には陝東伯を追加されるが、公や単于の地位はそのままであることから、(漢の)東方の覇者を意味する称号であったとみられる[6]麟嘉元年(316年)、拓跋部の協力を受けた劉?を撃破し、晋の并州を降した。劉聡は停戦を言い渡したが、石勒は無視し、三国鼎立を念頭に露骨に自立を図った。もっとも、石勒の劉淵への服属そのものが初めから表面的なものに過ぎず、名目だけ漢の官爵を受けていた(当初はそれすら拒んでいた)自立勢力である石勒は晋と戦いながらも漢の勢力の及ばない東方へ更なる勢力拡大を行い、劉聡は王弥殺害などに対しても手を拱くしか無かったとする見解もある[7]

麟嘉3年(316年)7月、劉聡の病が重くなると、石勒を大将軍録尚書事に任じて皇太子劉粲の補佐を命じるが、石勒はこれを固辞する。


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