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いしい てるお
石井 輝男
Teruo Ishii
本名北川 輝男 (きたがわ てるお)
生年月日 (1924-01-01) 1924年1月1日
没年月日 (2005-08-12) 2005年8月12日(81歳没)
出生地 大日本帝国・東京府東京市麹町区
(現東京都千代田区麹町)
死没地 日本・東京都調布市
国籍日本国
民族モンゴロイド、日本
職業映画監督・脚本家
ジャンル映画・テレビ映画
活動期間1942年 - 2005年
活動内容1942年:東宝入社、撮影助手
1946年:新東宝入社、演出部
1957年:監督昇進
1961年:東映と専属契約
1966年:フリー
1979年:テレビ映画に本格シフト
1991年:映画界に復帰
配偶者有
主な作品
『スーパージャイアンツ』
『女体棧橋』
『網走番外地』シリーズ
『徳川女系図』
『温泉あんま芸者』
『徳川女刑罰史』
『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』
『現代任侠史』
『実録三億円事件 時効成立』
『肉体女優殺し』
『ゲンセンカン主人』
受賞
1994年:ヨコハマ映画祭特別賞
『ゲンセンカン主人』
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石井 輝男(いしい てるお、1924年〈大正13年〉1月1日 - 2005年〈平成17年〉8月12日)は、日本の映画の監督、脚本家である。本名:北川 輝男(きたがわ てるお)。
東宝に撮影助手として入社。新東宝で『女体桟橋』[1]などの佳作を発表した後東映に移り、高倉健主演の『網走番外地シリーズ』が連続でヒット作となった。東映のヒットメーカーの一人であり、1968年(昭和43年)より東映ポルノと呼ばれる一連の作品を発表した。また、松竹や日活でも作品を発表している。1970年代までにポルノとアクション映画を量産した。ただ石井輝男はエロスだけの監督ではなく、前衛舞踏の土方巽を登場させるなど、表現規制を打ち破ること、芸術志向と娯楽作品が同居した監督だった。1990年代はつげ義春・江戸川乱歩の世界へ傾倒した。
人物
東映プロデューサーの天尾完次は「石井は同じ東宝出身の黒澤明の対極に位置する」と評している。
東宝時代は撮影助手に従事していたが、東宝争議にともなう新東宝への移籍と同時に助監督になった。
渡辺邦男、成瀬巳喜男、清水宏などの助監督に付く。また、田中絹代監督作品の助監督もした。娯楽映画を量産していた渡辺からは早撮りを習い、清水からは脚本を学んだものの、助監督時代は成瀬に大きな影響を受けており、成瀬調の作品の企画を会社に出していたが全て却下されたという。
成瀬の助監督時代に、成瀬作品の産みの親である脚本家の水木洋子の作品の仕事を渇望していたが、実現しなかった。
監督昇進後も高い技術、モダニズムを評価されヒットに恵まれながらも、完成度の高い映画作家とは逆の方向へ走り続け、映画賞などとはまったく無縁のアンチ巨匠として孤高の地位を築き上げた。インタビューでも「タッチの統一とか整合性は嫌い」と語っており、破綻なくウェルメイドに仕上げる技術は十分に持ち合わせながらも、あえて作品をアナーキーな映画にせずにいられない性格を吐露している。
2005年8月12日午前9時43分、肺がんのため都内の病院で死去した。
2006年(平成18年)8月5日、網走市内の潮見墓園に墓碑が建てられ、遺骨が納められた。「安らかに 石井輝男」と記された墓碑の碑文は、高倉健によるものである[2]。また、石井の功績を讃え、博物館網走監獄の正門前に石碑“映画『網走番外地』撮影地の碑”が建てられ、同年8月6日に除幕式が行われた。
2006年8月12日、矢口将樹監督によるドキュメンタリー『石井輝男 FAN CLUB』が公開された。
2010年、ダーティ工藤監督によるドキュメンタリー『石井輝男映画魂』が公開された。
2019年11月24日から2020年1月25日、『ラピュタ阿佐ヶ谷』にて数多くの傑作娯楽映画やカルト的名作をのこした鬼才・石井輝男監督を大フィーチャーし、38作品の上映が開催された[3]。
来歴
東京都千代田区麹町生まれ。生家は浅草の綿問屋。
1939年(昭和14年)、早稲田実業を中退。
中退後、遠戚の紹介で大阪にあった記録映画のプロダクションに入る。
同プロダクションに出入りしていた人から、東宝への入社を薦められる事となる。
東宝時代
1942年(昭和17年)、東宝へ撮影助手として入社。
1945年(昭和20年)、召集、陸軍浜松航空隊の写真班員として中国大陸へ配属。復員後、東宝に戻る。
新東宝時代
1946年(昭和21年)、新東宝に参加。撮影部より演出部に移る。
1947年(昭和22年)3月、渡辺邦男監督の助監督につき演出の仕事を始める。この後、清水宏、成瀬巳喜男の助監督にもつく。
1957年(昭和32年)、『リングの王者 栄光の世界』で監督デビュー。57年から60年にかけて『肉体女優殺し』『女体桟橋』『女体渦巻島』などの傑作を発表。初期から表現規制に抵抗する作風が見られた。『鋼鉄の巨人(スーパージャイアンツ)』シリーズも監督、1作目から6作目までを担当。