石井聰亙
[Wikipedia|▼Menu]

いしい がくりゅう
石井 岳龍
別名義石井 聰亙(いしい そうご)
生年月日 (1957-01-15)
1957年1月15日(67歳)
出身地 日本福岡県福岡市
職業映画監督
ジャンル映画
活動期間1976年 -
公式サイト ⇒!!!!!!! ISHII SOGO-GAKURYU.COM !!!!!!!
主な作品
狂い咲きサンダーロード
爆裂都市
逆噴射家族
五条霊戦記
パンク侍、斬られて候

 受賞
ブルーリボン賞


スタッフ賞

1980年狂い咲きサンダーロード

その他の賞
ヨコハマ映画祭
特別賞
1980年狂い咲きサンダーロード

テンプレートを表示

石井 岳龍(いしい がくりゅう、1957年昭和32年〉1月15日[1] - )は、日本映画監督。改名前の石井 聰亙(いしい そうご)の名で広く知られている[2]

2006年から神戸芸術工科大学で教授として教鞭をとる[3][4]
略歴

福岡県福岡市出身[1]日本大学芸術学部中退[4]。1976年、大学入学直後、学生による自主映画グループ「狂映舎」を設立[3]。8mm映画デビュー作『高校大パニック』で注目を浴びる。1978年に同作を日活がリメイクした『高校大パニック』を澤田幸弘と共同監督するが、実質的には何もできなかったという[2]。1978年、『突撃!!博多愚連隊』がぴあフィルムフェスティバルに入選。同年の入選者に、森田芳光長崎俊一らがいる。

1980年、長編『狂い咲きサンダーロード』を劇場公開。インディーズ界の旗手として名前が挙がる[3]。1982年、自主映画活動の集大成的な作品『爆裂都市 BURST CITY』を発表。同年、長谷川和彦に誘われディレクターズ・カンパニーの設立に参加[5]。1984年、商業映画としては初の単独監督作『逆噴射家族』を発表。翌年のベルリン国際映画祭で注目され、イタリアの第8回サルソ映画祭でグランプリに輝く[2] など、国内のみならず海外でも高い評価を受ける[3]

また、自らがボーカルをつとめるバンド「石井聰亙&バチラス・アーミー・プロジェクト」で音楽活動も行い、自作映画『アジアの逆襲』の音楽を担当して、同題名のレコード・アルバムも発売した。

しかし『逆噴射家族』以後は約10年にわたって長編作品が作れない状態が続く。未完の企画として『GOD STONE』『虹のキリン』『箱男』などがある[6]。ウィリアム・ギブスンの映画化や『逆噴射家族』の英語リメイクなど、アメリカで撮影する企画もあったが実現していない[7]。その前後からジャパニーズパンクニュー・ウェイヴシーンと共闘した数々のミュージック・ビデオと実験的短編映画製作に打ち込む。1993年、WOWOWのオムニバスドラマ『TOKYO BLOOD』全4話を監督。

1994年、10年ぶりの劇場長編作品『エンジェル・ダスト』が公開。バーミンガム映画祭でグランプリを受賞。以後、『水の中の八月』(1995年)、『ユメノ銀河』(1997年・オスロ映画祭グランプリ)と作品を発表。続いて、時代劇とSFXを融合させた超大作『五条霊戦記』(2000年)が公開される。

21世紀に入ってからは、『ELECTRIC DRAGON 80000V』(2001年)、『DEAD END RUN』(2002年)を発表。2005年には、フルデジタル機材を使用して制作した『鏡心・3Dサウンド完全版』を発表、全国上映ツアーを行った。2006年、監督生活30周年を迎え、記念の初期作品集が発売された。

2010年1月17日、公式ブログで、今後は石井岳龍の名前ですべての活動、仕事を行うと発表[8]。改名については「聰亙」が漢字を間違えられることが多かったこと、初期の作品を集めたDVDが発売済みであること、『狂い咲きサンダーロード』に主演した山田辰夫が2009年7月に亡くなったことなどを理由に挙げている[2]
監督作品
映画

高校大パニック(1976年)

1/880000の孤独(1977年)

突撃!博多愚連隊(1978年)

高校大パニック(1978年) ※1976年の同名自主映画を澤田幸弘との共同監督で商業リメイク。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:28 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef