石井 義人巨人時代
基本情報
国籍 日本
出身地埼玉県川口市
生年月日 (1978-07-12) 1978年7月12日(45歳)
身長
体重178 cm
85 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション一塁手、三塁手、二塁手
プロ入り1996年 ドラフト4位
初出場1997年9月25日
最終出場2014年8月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
浦和学院高等学校
横浜ベイスターズ (1997 - 2002)
西武ライオンズ
埼玉西武ライオンズ (2003 - 2011)
読売ジャイアンツ (2012 - 2014)
コーチ・監督歴
武蔵ヒートベアーズ (2015 - 2016)
公徳会 佐藤病院(軟式)
日本女子プロ野球リーグ (2019)
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石井 義人(いしい よしひと、1978年7月12日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(内野手、右投左打)・コーチ。愛称は「ジャッキー」[注 1]。 小学生で前川バンビーズ、中学時代は越谷リトルシニアに在籍。浦和学院高等学校時代の1994年に第76回全国高等学校野球選手権大会(2回戦敗退)、1996年に第68回選抜高等学校野球大会(2回戦敗退)、第78回全国高等学校野球選手権大会(初戦敗退)と3度甲子園出場を果たした。三浦貴は高校時代の同級生で、当時は三浦がエースを務め、石井が4番を打っていた。1年上に木塚敦士がいた。 1996年のドラフト会議にて横浜ベイスターズから4位指名を受け入団。 1999年は5月にジュニア月間MVPを獲得したが、7月に右足の腫瘍を手術し、残りは治療に専念した。 2000年から一軍で活躍し始め、プロ初本塁打を放ち、規定打席には到達しなかったが打率.328を記録した。 しかし守備難が問題視され、三塁手としては古木克明の加入もあってしだいに出場機会を失う。2002年オフ、中嶋聡・富岡久貴とのトレードで細見和史とともに西武ライオンズへ移籍した[2]。 2004年は高木浩之の不調で、シーズン後半に二塁手として出場機会を増やし、規定打席不足ながら打率.304を記録した。2004年のパシフィック・リーグプレーオフ2ndステージ第5戦では、6回表一死満塁に代打で登場、新垣渚から左翼フェンス直撃の逆転適時二塁打を放ち、リーグ優勝に貢献した。 2005年は6番・二塁手でプロ9年目にして初の開幕スタメンを掴むと、高木浩之の離脱で二塁手の定位置を掴んだ。開幕から好調な打撃を発揮し、5月の月間MVPに輝いた他、交流戦では4割を打ち、交流戦首位打者にも輝く活躍を見せた。プロ入り初のオールスターゲーム出場も果たす。8月27日、西口文也が9回まで無安打無四球を続けたものの、味方も無得点だったために延長へ突入し、10回表に安打を打たれて完全試合を逃した試合で、10回裏に福盛和男からサヨナラ適時打を放って西口に白星をつけた。初の規定打席到達で3割打者となり、打率はリーグ4位の.312、出塁率.391という好成績を残した。 2006年も9番・二塁手で開幕スタメン出場したが、5月に左足裏痛で降格し、片岡易之に二塁手のレギュラーを奪われた。中島裕之の離脱で3番打者が不在になり、復帰した石井は8月1日から3番に抜擢され、中島の穴を埋めた。規定打席には到達しなかったが、打率.312の好成績を残す。 2007年は中村剛也が不振に陥ると三塁手で、片岡が離脱すると二塁手での起用が増えた。4月後半には1・2番打者が決まらず、高い出塁率を見込まれて起用された(1番13試合、2番9試合)。打率は.250付近から上昇せず、守備でも6失策と精彩を欠いた。最後まで中村との併用が続き、レギュラー確保はならなかった。オフに結婚、挙式した。 2008年は中島が北京五輪のために離脱した際は、片岡が遊撃手に回って二塁を守り、クレイグ・ブラゼルが指名打者となり、石井が一塁手として起用されることも多かった。終盤はブラゼルの離脱もあって一塁手のレギュラーに定着した[注 2]。
経歴
プロ入り前
横浜時代
西武時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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