石井好子
[Wikipedia|▼Menu]

石井 好子
婦人之友社『婦人之友』第54巻第9号(1960)より
基本情報
出生名石井 好子
(いしい よしこ)
生誕1922年8月4日
出身地 日本東京都
死没 (2010-07-17) 2010年7月17日(87歳没)
職業シャンソン歌手
エッセイスト
実業家
活動期間1952年 - 2010年

石井 好子(いしい よしこ、1922年8月4日 - 2010年7月17日)は、日本シャンソン歌手エッセイスト、実業家(芸能プロモーター)。日本シャンソン界の草分けであり、半世紀以上に亘り牽引し続けた業界の代表・中心人物として知られている。日本シャンソン協会初代会長。東京都出身。東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校)卒業[1]東京音楽学校声楽専科卒業[2]
来歴

政治家・石井光次郎の次女として生まれ、母の勧めにより6歳からピアノを習う。ただ、歌は好きだがピアノは好きになれなかったという。ピアノを教えていた岡本たま(音楽家岡本敏明の妻)は、そんな好子にピアノを無理強いすることなく、ただ好きな歌を歌うよう勧めた。東京音楽学校では主としてドイツ歌曲を学んだ[3]。同校を卒業して、1945年にジャズ歌手となった[2]。渡辺弘とスターダスターズの専属歌手などを務めたのち、サンフランシスコでの留学を経て1952年に渡仏し、パリでシャンソン歌手としてデビュー。サンフランシスコ時代に、遊びにいったホテルのバーで偶然ジャズ界の重鎮ルイ・アームストロングと出会い、そのホテルのステージで共演したことがある。サンフランシスコでは、ジョセフィン・ベーカーとも共演している。

パリで義兄の妹の朝吹登水子と同居中にフランスの童謡に興味を持ち帰国後もフランス語で歌っていたが、1959年ダークダックスとのレコード企画でフランス語の原曲『J'ai perdu le do de ma clarinette(クラリネットのドが出ない)』に石井が日本語詞を付け『クラリネットをこわしちゃった』として収録された。「オ パキャマラド(Au pas, camarade)?」の部分はフランス語のまま残したが、これについて「リズムに乗ったフランス語で歌う方が楽しいと思ったから」と語っている[4]

1961年に石井音楽事務所を設立し、裏方に回る。岸洋子芦野宏加藤登紀子田代美代子ザ・フィンガーズ[5]などのマネージメントを行ったが(加藤、田代は自身主催のコンクール出身である)、ソ連赤軍合唱団の招聘公演の失敗などから赤字がかさみ、1977年に廃業。その後は歌手としての活動を再開し、1988年には日本人として初めてシャンソンの殿堂とされるパリのオランピア劇場の舞台に立った。1991年には日本シャンソン協会を設立し会長に就任。2002年より神戸大使を務めた。

エッセイストとしても知られ、1963年に上梓した処女作『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』は日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しベストセラーとなった。食通として知られ、『料理の鉄人』にはたびたび審査員として出演した。

晩年まで歌手・エッセイストとして活躍し、2010年7月17日肝不全のため死去。87歳没(享年88歳)。戒名は「彩光院慈照好音大姉」[6]8月26日に東京・帝国ホテルでお別れの会が行われ約1000人が参列した。加藤登紀子は「歌手としてのABCを教えて下さった。ハイヒールで天国のステージに上がり歌い続ける石井さんを思い描いていたい」と偲んでいる[7]
備考

趣味は水泳。1987年に開催された
マスターズ水泳台湾大会50m平泳ぎで大会新記録で優勝している[7]。東京五輪水泳日本代表でタレントの木原光知子とは友人で、木原の葬儀では弔辞を読んだ[8]

俳優の中原丈雄の名付け親である。

親族

元逓信大臣で
日本鉱業創業者の久原房之助は母方の祖父である。

衆議院議長日本体育協会会長などを務めた石井光次郎は父である。

大隈信幸五島昇は叔父にあたる(母の妹たちの夫)。

兄弟姉妹に朝吹京、石井公一郎、石井大二郎(昭和海運社長)がいる。

朝吹三吉は義兄(姉の夫)で、その妹の朝吹登水子・由紀親子とは石井が渡仏していて以降、パリ在住の日本人・遠戚ということから付き合うようになり、後には同居し3人で暮らした時期もあった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:21 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef