石井十次
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いしい じゅうじ
石井 十次

生誕 (1865-05-05) 1865年5月5日
日本 日向国児湯郡上江村馬場原(現在の宮崎県児湯郡高鍋町
死没 (1914-01-30) 1914年1月30日(48歳没)
宮崎県児湯郡高鍋町
死因腎臓病
出身校第三高等中学校医学部(現在の岡山大学医学部
宗教キリスト教
配偶者内野品子、吉田辰子
子供石井友子
親石井万吉・乃婦子
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石井 十次(いしい じゅうじ、1865年5月5日慶応元年4月11日[1] - 1914年大正3年)1月30日[1])は、明治期の慈善事業家。岡山孤児院を創設した人物である。その功績から、「児童福祉の父」と言われる[2]アリス・ペティ・アダムス留岡幸助山室軍平とともに「岡山四聖人」と称される。

岡山医師を目指して、岡山医学校(現在の岡山大学医学部)の医学生として研修中であったが、生活に困窮する母親から子どもを預かったことをきっかけに孤児教育会を設立する。その後、預かる子どもの数が増え、育児事業に専念するために医師として働くことを断念した。そして、英国キリスト者ジョージ・ミュラーをモデルにして、キリスト教信仰に根ざした岡山孤児院を創設して[3][注釈 1]、生涯を孤児救済に捧げた。

岡山孤児院は既に存在しないが、その流れを汲む石井記念友愛社(宮崎県)と愛染橋保育所大阪府)が、各種の福祉活動を行っている。
略歴

1865年5月5日慶応元年4月11日日向国児湯郡上江村馬場原(現在の宮崎県児湯郡高鍋町馬場原)で、高鍋藩の下級武士、石井万吉・乃婦子夫妻の長男として生まれる[4]。城竹窓のもと漢学を学ぶ。城は石井のことを「善悪ともに極端に走る直情径行の典型」と評した。

1879年明治12年)海軍士官を志し東京の攻玉社に入学するも、脚気により1年で退学[4]1880年(明治13年)製糸業の事業家を志すも、酒席で書いた反政府の檄文により国事犯で投獄される[4]。獄中で孟子に親しみ、同房者から西郷隆盛が農村で土地開墾をしていることを聞く。1881年明治14年)幼馴染の内野品子と結婚[4]。西郷に倣い荒地の開墾を始めるも水不足により断念。上江小学校で教鞭を執る。1882年(明治15年) 宮崎警察署の事務官となる[2]。友人の妹で遊郭で働く女性と親しくなり性病に罹患する。そこで医師の荻原百々平と出会い[4]、聖書を渡された上で医学を勧められたことがきっかけとなり、医学を学ぶため岡山市に移住。岡山甲種医学校に入学[4]

1884年(明治17年)岡山基督教会(現・日本基督教団岡山教会)で洗礼を受ける[4]1886年(明治19年)岡山県甲種医学校の進級試験に失敗する。1887年(明治20年)上阿知の診療所で代理診療を行う中で、四国巡礼から帰る女性から一人の男児を引き取る[2][4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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