石井一久
[Wikipedia|▼Menu]

石井 一久2023年6月 楽天モバイルパーク宮城
基本情報
国籍 日本
出身地千葉県千葉市若葉区
生年月日 (1973-09-09) 1973年9月9日(50歳)
身長
体重185 cm
100 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1991年 ドラフト1位
初出場NPB / 1992年6月9日
MLB / 2002年4月6日
最終出場MLB / 2005年9月28日
NPB / 2013年8月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


東京学館浦安高等学校

ヤクルトスワローズ (1992 - 2001)

ロサンゼルス・ドジャース (2002 - 2004)

ニューヨーク・メッツ (2005)

東京ヤクルトスワローズ (2006 - 2007)

埼玉西武ライオンズ (2008 - 2013)

監督・コーチ歴


東北楽天ゴールデンイーグルス (2021 - 2023)

この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

石井 一久(いしい かずひさ、1973年9月9日 - )は、千葉県千葉市若葉区出身の元プロ野球選手投手、左投左打)。

2018年9月から2022年まで東北楽天ゴールデンイーグルス(株式会社楽天野球団)取締役GM[1]、2021年から2023年まで同球団第9代監督を務めた。

マネジメントは吉本興業スポーツ部。妻はフリーアナウンサー木佐彩子
経歴
プロ入り前

父親がヤクルトスワローズOB(および入団当時のヤクルト投手コーチ)だった石岡康三と従兄弟同士である縁から、幼少期からヤクルトに親しみを持っていた[2]。またサッカー経験が豊富にあり、『笑っていいとも!』出演時には「野球は向いてない」「サッカーをやりたかった」「知らないうちにプロ野球選手になっていた。両親は喜んでいたけど、僕はうれしくなかった」などと話している[3]

みつわ台中時代は一塁手であった。東京学館浦安高等学校では投手に転向する。[4]全国大会(甲子園)出場はならなかったが、1991年(3年次)には夏の千葉県大会4試合で52奪三振を記録[5]。5回戦で銚子商業高校に0-1で敗れたが、プロ野球全12球団のスカウトからは「10年に1人、江夏豊に匹敵する左腕」と高評価を得た[2]

同年のプロ野球ドラフト会議を控え、今中慎二(当時は中日ドラゴンズ所属)以上という快速球左腕として注目を受けており[6]読売ジャイアンツ(巨人)・西武ライオンズに加え、地元・千葉(千葉マリンスタジアム)への本拠地移転が決まっていた千葉ロッテマリーンズ[注 1]が1位指名の候補として石井をピックアップしていた[2]。また福岡ダイエーホークスも「高校生こそドラフトの宝」という信念を持つとされていた編成部長・穴吹義雄の意向から、石井を1位指名するとする予想があった[6]。しかし石井本人は幼少期からヤクルトに親しみを持っていたことに加え、当時ヤクルトは野村克也監督の下で力をつけ、セントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝を狙えるチームとなっていたことから、ヤクルトへの入団を熱望した[2]。ロッテはなおも地元出身の逸材である石井を熱心に勧誘しており[2]、ドラフト会議直前にも石井はヤクルトとロッテから重複指名されるだろうという予想が報じられていたが[7][8]、最終的にロッテは石井の指名を断念して吉田篤史ヤマハ硬式野球部)を1位指名したため、競合必至とされた石井は意中のヤクルトから単独1位指名を受け、球団の高校生新人選手としては当時最高額[注 2]となる契約金8000万円で入団した[2]。他球団が石井指名を断念した理由は、石井がヤクルト以外への入団に消極的だったことに加え、「高校生の投手は一軍の戦力になるまで時間が掛かる」という判断からで[2]、ロッテのスカウト部長代理・木樽正明は石井について「2年か3年で中心的なピッチャーになれる」と評していたが、当時のロッテは即戦力を必要としており[9]、ヤクルトとの競合や前年オフの出来事もあって、最終的には会議直前に石井指名を断念することを決めたと報じられている[10]背番号は16。
ヤクルト時代

1992年は12試合に登板したが勝敗は付かなかった。日本シリーズ第3戦では史上初の「レギュラーシーズンで未勝利の高卒新人ながら先発登板」を果たす[2]。高卒新人投手の先発登板自体、1953年の中村大成、1956年の稲尾和久、1966年の堀内恒夫、2007年の吉川光夫含めて5人のみで、全守備位置を通じて高卒新人のシリーズ先発出場は1988年の立浪和義以来4年ぶりの事例だった。4回に2点を失い降板、敗戦投手となっている。

1993年8月3日の阪神タイガース戦でプロ初勝利を達成するが、雨天コールドゲームでの勝利だった。

1994年はチームが慢性的な左投手不足であったため、中継ぎ・谷間の先発を担い、リーグ2位の54試合に登板。

1995年は初の規定投球回数到達と2桁勝利(13勝)を達成し、2年ぶりのリーグ優勝・日本一における中心選手の一人となった。

1996年は前年オフに左肩関節の損傷の修復手術をした影響もあり開幕には間に合わず、後半戦復帰したが思うような投球ができずオフに再度左肩関節の手術する。

1997年はシーズン中盤まで渡米し、クリーブランド・インディアンスにて左肩のリハビリをする。復帰後はかつての豪速球が復活し、10勝を挙げた。9月2日の横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)で、史上65人目となるノーヒットノーランを達成[11]。これは4与四球を含むものだったため、横浜のバッテリーチーフコーチだった権藤博は「そんな記録に意味はない」と発言したが、鈴木尚典は「早くメジャー(リーグ)へ行ってほしい」とコメントした[12]佐々木主浩は「石井一久にノーヒットノーランを食らったところでガクッときましたよね。力の差を感じたというのがありました。力でねじ伏せられて、勢いだけじゃダメなんだ。もう少し力をつけないと、というのはありましたね」[13]と述べている。この快投は終盤戦に追い上げてきた2位の横浜を突き放す上で大きな効果を挙げ、ヤクルトは2年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは第1戦に先発。当時日本シリーズタイ記録の12奪三振で完封。第5戦もリリーフで2勝を記録して日本一に貢献し、自らもシリーズ優秀選手に選出された。なお、同年のオフには女性タレントの神田うのとの交際と、これに対する野村克也監督夫人の野村沙知代からの痛烈な批判が週刊誌やワイドショーなどで報道された。

1998年4月3日の読売ジャイアンツ戦(明治神宮野球場)で初の開幕投手を務めるも敗戦投手となるが、同年は最終的に自己最多の14勝を挙げ、自身初の最多奪三振を獲得したほか、シーズン三振奪取率11.047の日本新記録を樹立する。一方でシーズン最多暴投の日本記録[注 3]の所持者となった。

1999年は春季キャンプで左脛を痛めて状態のまま開幕を迎え2年連続の開幕投手を務め、初の開幕勝利を記録。初めてオールスターゲームに出場し、第3戦に登板して勝利投手になった。同年6月26日の阪神タイガース戦では川尻哲郎から通算3本目となる本塁打を打った(日本で最後の本塁打。日米通算4本塁打)。しかしキャンプで痛めた足の状態も思わしくなく好不調の波が激しく、同年は8勝に終わり規定投球回もわずか(133回で残り2回足らず)に届かなかった。

2000年3月31日の中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で、3年連続の開幕投手を務め、関川浩一立浪和義福留孝介レオ・ゴメスデーブ・ニルソン山崎武司から6者連続奪三振を記録して勝利投手となる。9月8日の巨人戦から10月5日の阪神戦まで34回1/3連続無失点を記録[14]するなど、勝ち負けは10勝9敗だったがセ・リーグの最優秀防御率と最多奪三振の二冠に輝いた。なお、同シーズンの開幕直前に、フジテレビアナウンサーの木佐彩子との結婚を発表した。

2001年、4年連続の開幕投手を務め、7回8奪三振で3年連続開幕勝利。前年の先発陣が移籍・退団・故障離脱により一新されたことで、先発陣の柱としてチームを牽引、年間ローテーションを守り、12勝を挙げて優勝に貢献する。日本シリーズでも初戦に先発し、8回を1安打12奪三振の好投で勝利する。日本シリーズ優秀選手賞を受賞した。

オフには「今まで具体的な夢を持ったことはなかったけど、初めて描いた夢がメジャーだった」とメジャー挑戦を表明し[15]、ジョー・アーボンと代理人契約をする。前年から球団に訴えていたポスティングシステムでのメジャーリーグ移籍を目指したが、9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件の影響を受け、一時はヤクルトと再契約を結んでメジャー移籍を断念する。同年12月には長男(第一子)が誕生した。
ドジャース時代

2002年1月7日に石井が移籍希望球団として挙げていたロサンゼルス・ドジャースが入札したことを受け、ドジャースと3年1230万ドルで契約を結んだ。背番号は17。入団会見では妻の木佐が小学2年から中学2年までロサンゼルス在住だったことを受けて「僕の妻はカリフォルニア人」とジョークを交え、会場の笑いを誘った。

2002年スプリングトレーニングで3本塁打を打たれ、防御率は10.00を越えるなど報道陣から不安を持たれたが、初先発となった4月6日のコロラド・ロッキーズ戦で6回を2安打に抑える好投で初勝利を挙げ、監督のジム・トレーシーは「これが君たちが色々と言っていた投手(石井)の実力だよ。公式戦を見ろと言っただろ?」とコメントした。球速も96mph(約154km/h)を計測し、デビュー戦10奪三振はペドロ・アスタシオと並ぶチーム最多タイ記録だった。2度目の登板となった4月12日のサンディエゴ・パドレス戦では、「三振しか取れない投手だと思われるのもしゃくなので、打たせて取る投球も出来ることを見せたい」と語り、スプリングトレーニングで習得したツーシームを用いて凡打の山を築いた。その後、4月28日のシカゴ・カブス戦で自己最速となる97mph(約156km/h)を計測し、開幕から6連勝と好調なスタートを切り、4月は5勝0敗でルーキー・オブ・ザ・マンスを受賞した。前半戦で11勝を挙げ、5月終了時でオールスター選出はほぼ確実と見られていたが、6月から調子を落としてオールスター選出を逃す。その後も不安定な投球を続け、後半戦は防御率5.57、WHIP1.63と不調に陥った。9月8日のヒューストン・アストロズ戦では頭部に打球を受けて病院に搬送、頭蓋骨の亀裂骨折と診断され、医師から「あと1ミリ、亀裂が長くなっていたら頭の中を通っている大きな血管を損傷して、出血死していたかもしれない」[16]と言われる程の大怪我でシーズンを終えた。同年チームメイトだった野茂英雄とは与四球数において、メジャー全体で1・2位を記録した(1位は石井106個、2位は野茂103個)。

2003年は前半戦最後の登板でNPB・MLB合算100勝を達成し、8勝3敗、防御率2.94の好成績で前半戦を終える。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:149 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef