いしい ふくこ
石井 ふく子
(左から)石井ふく子、大空真弓、樫山文枝、林美智子、池内淳子。
1967年頃
本名石井 ふくこ
生年月日 (1926-09-01) 1926年9月1日(97歳)
出生地東京府東京市下谷区[1]
(現・東京都台東区下谷)
国籍 日本
血液型A型[2]
職業テレビプロデューサー
演出家
ジャンルテレビドラマ
活動期間1961年 -
活動内容テレビドラマのプロデュース、
舞台演出
著名な家族伊志井寛(継父)
三升延
石井 ふく子(いしい ふくこ、1926年〈大正15年〉9月1日 - )は、日本のテレビプロデューサー、舞台演出家。東京府東京市下谷区[1]池の端[3](現・東京都台東区下谷池之端)出身。元TBSテレビプロデューサー。
伊志井寛の長女にあたる。新東宝の女優活動から出発し、ラジオ東京(現・TBS)に入社。その後は、テレビドラマのプロデューサーとして、橋田壽賀子や平岩弓枝らとタッグを組み、多くのヒットドラマを世に送った。退職後、フリーとなった後は舞台演出なども手掛けている。
また、橋田文化財団にも協力している。 父は、劇団新派の俳優伊志井寛(ただし、戸籍と血縁ともに関係がない)。母は分川本の君鶴と呼ばれた芸者で、小唄の家元になった三升延
来歴
文化学院に入学した後、東京女子経済専門学校(または女子経済専門学校附属高等女学校[4])に転校し、卒業後は新東宝の女優となった。女優業を辞めて1950年に日本電建へ入社して宣伝部に務め、1961年にTBSへ入社。
ほどなくして出会った橋田壽賀子、平岩弓枝などの脚本家たちとタッグを組んでTBSでドラマ制作に携わる。以降プロデューサーとして、『肝っ玉かあさん』『ありがとう』を筆頭に、『女と味噌汁』「カミさんと私」「おんなの家」「ぼくの妹に」「はじめまして」「家族」「道」「愛」「心」「出逢い」など、数々のホームドラマをヒットさせる。
数々のヒット作に携わったことから、一部のメディアから「作品選定の確かさと配役の妙を以て大ヒットドラマを生んだ」と評されるようになる[5]。
1974年にTBSを退社後、「TBS専属のフリーランスプロデューサー」の立場[6][注釈 1]だったが、2000年代以降は「想いでかくれんぼ」(2000年)、「夫婦」(2006年)、「結婚」(2009年)など、橋田壽賀子脚本・渡哲也主演のスペシャルドラマをテレビ朝日で手掛けている。ただし現在(2022年)は再びTBSと専属契約しており(何年頃専属に戻ったかは不明)、名刺もTBSのものを携帯している[5]。
義父・伊志井寛の勧めで1968年11月の新派公演「なつかしい顔」(新橋演舞場)から舞台の演出を手掛けるようになり、以来足掛け40年に渡り386作品を演出。近年は舞台作品の演出が活動の中心になっている。伊志井寛との関係から劇団新派との関わりが深く、京塚昌子を筆頭に新派出身の役者を多く自身のドラマや舞台に起用した。劇場は、名鉄ホール・芸術座・新橋演舞場・明治座・帝国劇場・飛天・近鉄劇場・松竹座・博多座・御園座・中日劇場・日生劇場・ル テアトル銀座・大阪新歌舞伎座・京都南座・新宿コマ劇場・三越劇場などで演出実績がある。
1996年1月24日、東京国税局から石井が社長の番組制作会社邑が、架空の経費計上して3年間で約6億3700万円の所得隠しを行い、約1億5600万円を脱税したとして法人税法違反(脱税)で東京地検特捜部に告発された。1997年6月30日、東京地方裁判所での初公判で石井は起訴内容を認め、検察側は懲役1年6月、邑に罰金5000万円を求刑して即日結審。1997年7月14日、東京地裁は懲役1年6月執行猶予3年の有罪判決、邑に罰金5000万円を言い渡した。判決ではこの事件で石井が邑の代表取締役及び取締役を退任、テレビドラマの仕事を降板したことが斟酌すべき事情に挙げられている[7][8]。1989年春の褒章で紫綬褒章を受章しているが、判決から3年後の2000年7月18日付で返上[9]。
長年の活動により、過去に3度ギネス世界記録に認定されている[2](1985年に「テレビ番組最多プロデュース」(1,007本)、2014年に87歳342日の「世界最高齢の現役テレビプロデューサー」、2015年に舞台初演作演出本数183作品)。
2014年4月より淑徳大学人文学部表現学科客員教授に就任。 本人によると9月半ばに生まれる予定だったが、ある時母が“9月1日に生まれた子は人に恵まれて育つ”という話を聞いた。生まれくる我が子の幸せのため母は9月1日に生むことを決め、危険な帝王切開を受けて石井を出産した[10]。 芸者だった母の影響で、3歳頃から習い始めた踊りに夢中になるが、小学校入学後は勉強嫌いのいたずらっ子となった。13歳の時にかっけを患ったため、踊りの道に進むのを断念した[10]。 文化学院に入学したが自由な校風があまり合わず、その後家を引っ越したのを機に転校。戦争が始まる前後に母が伊志井寛と親しくなるが、戦況の悪化により3人で山形県に疎開した[10]。 1945年19歳の頃に終戦を迎え[10]、東京に戻ると自宅は空襲で焼かれた後だったため、両親と3人で知人の家を泊まり歩いた。後日新宿駅で父の知り合いである長谷川一夫と偶然再会し、彼の厚意で親子で自宅の離れで暮らし始める[5]。当時長谷川家には彼の姪・長谷川裕見子[注釈 2]も暮らしており、石井は彼女と年が近い(裕見子の方が2歳年上)ことから親しくなった[注釈 3]。 長谷川一家と親しくなったことから、彼の紹介で新東宝のニューフェイスとして女優デビュー[5]。デビュー作は、『大江戸の鬼』という時代劇で、高峰秀子の友人役だった[10]。その後も端役で映画に出演したが、元々地味なことが好きで「女優のような派手なことは自分に向かない」と感じたため、デビューから3年で女優業に見切りをつけた[10][5]。 新聞の求人で見つけた住宅メーカーの日本電建に就職し、銀座の本社宣伝部で働き始める[注釈 4]。宣伝部は発足したばかりで何をどう宣伝するかも決まっていない状態で、同部社員も部長と課長と石井の3人だけだった。しかし、このおかげで新人の石井も気軽に意見を述べたり、行動を起こしやすいことから水が合った[5]。 当時はテレビよりラジオ優位の時代だったことから、石井は会社の宣伝のためラジオ番組のスポンサーになることを提案。これが通ってラジオ東京(後のTBS)と手を組み、新派の役者だった父のつてで若い俳優をどんどんキャスティングして朗読劇を放送してもらった[5]。その後とある作品で役者の人手が足りなくなった[注釈 5]のをきっかけに、映画俳優の貸し出しを頼むため配給会社にも訪れるようになる[注釈 6]。日本電建の社員ながらいつしかTBSのスタジオに入り浸り、徐々に行動力・交渉力などが評価され始める[5]。 1955年のTBSのテレビ開局直後、「『東芝日曜劇場』のプロデューサーになってほしい」と声がかかった[10]。当初日本電建の社員ということを理由に断るが、TBSの編成局長が日本電建の社長に直接掛け合ったことで、日本電建社員兼TBSの嘱託社員となることが決まる[注釈 7]。以後3年間は、「平日は日本電建の仕事、土日はTBSの仕事」と休日返上で働いた[10]。 その後TBSの上司から本格的に制作スタッフとしてドラマに携わるよう指示を受け、キュー出し[注釈 8]から仕事を学び始めた。いくつかの現場の仕事を経験した後、1958年にテレビドラマ『橋づくし』(原作・三島由紀夫)で初めて制作を手掛けた。それ以降プロデューサーとして原作者のドラマ化の許可などを交渉したり、キャスティングに奔走するようになる[5]。日本電建退社を機に、それまでTBS嘱託社員だったのが正式に社員になった[10]。 ちなみに原作者などの交渉でOKをもらうコツとして、「交渉は、とにかく一生懸命やること。『私はこの企画をやりたい。そのためにはあなたのOKが必要なんです』と素直な気持ちを相手に伝えるしかない」と語っている。また交渉には、必ず一人で行くことにしている。本人曰く「もし複数でお願いにあがっても全員が同じ気持ちとは限らないし、本当の熱意が伝わりにくい」とのこと[5]。 橋田壽賀子とは、1964年の「日曜劇場 愛と死をみつめて」で組んだことから親しくなった。それ以降橋田の作品に大きく影響するほどの親交があり、「石井ファミリー」(下記参照)「石井組」などと巷伝される役者たちは、橋田ドラマの常連俳優と事実上同じである。石井ファミリー 池内淳子、吉永小百合、佐久間良子、若尾文子、三田佳子、淡島千景、京マチ子、中田喜子、坂口良子、山田五十鈴、森光子、いしだあゆみ、小川知子、松坂慶子、一路真輝、長山藍子、泉ピン子、竹下景子、野村真美、藤田朋子、赤木春恵、乙羽信子、杉村春子、山岡久乃、奈良岡朋子、京塚昌子、大原麗子、香川京子、草笛光子、河内桃子、山村聡、藤岡琢也、宇津井健、大空眞弓、石坂浩二、佐良直美、波乃久里子、井上順、前田吟、角野卓造、沢田雅美、三田村邦彦、船越英一郎、徳重聡、植草克秀、東山紀之、錦織一清、高島礼子、音無美紀子、熊谷真実、東てる美、岡本信人、松村雄基、渋谷飛鳥、清水由紀などを起用した。
エピソード
子供時代
戦後
OL時代
プロデューサーへ転身
脚本家・作家とのエピソード
橋田壽賀子
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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