石ノ森章太郎
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いしのもり しょうたろう石ノ森 章太郎
本名小野寺 章太郎(おのでら しょうたろう)
生誕 (1938-01-25)
1938年1月25日
宮城県登米郡石森町(後の旧中田町、現在の登米市
死没 (1998-01-28) 1998年1月28日(60歳没)
東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院[1]
国籍 日本
職業漫画家
称号勲四等旭日小綬章
活動期間1954年 - 1998年
代表作

サイボーグ009

仮面ライダー

佐武と市捕物控

人造人間キカイダー

さるとびエッちゃん

マンガ日本経済入門

HOTEL

受賞

第7回講談社児童まんが賞(『サイボーグ009』『ミュータント・サブ』

第13回小学館漫画賞(『ジュン』『佐武と市捕物控』)

第33回小学館漫画賞(『HOTEL』『マンガ日本経済入門』)

第17回日本漫画家協会賞大賞(『マンガ日本経済入門』)

日本漫画家協会賞文部大臣賞

手塚治虫文化賞マンガ特別賞

映画特別功労賞

公式サイトhttps://ishimoripro.com/
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石ノ森 章太郎[注釈 1](いしのもり しょうたろう、1938年昭和13年〉1月25日[2][3] - 1998年平成10年〉1月28日[3])は、日本漫画家。本名は小野寺 章太郎(おのでら しょうたろう)[3]1984年までは「石森 章太郎」の表記を使用していたが、この時期には「いしもり しょうたろう」と呼ばれるのが通例だった。
概要

SF漫画ギャグ漫画から学習漫画まで幅広いジャンルの作品を量産し、“漫画の神様”手塚治虫との対比で「漫画の王様」[4][5]、「漫画の帝王」[6] と評された。

代表作は『サイボーグ009』『佐武と市捕物控』『009ノ1』『さるとびエッちゃん』『人造人間キカイダー』『マンガ日本経済入門』『HOTEL』など[3]仮面ライダーシリーズがんばれ!!ロボコンを始め、特撮作品の原作者としても活躍した。

昭和30年代から40年代、漫画の世界で新しい手法の開発者としてとくに目立った存在であり、多様な分野と作風の中でも特にSF漫画で他への影響が手塚と並んで大きく、いわゆる手塚風漫画の中で最もスタイリッシュな作風で、各時点での新鮮な画面コマ表現と少女漫画にも通用する滑らかな線をもち、昭和40年代始めごろには漫画の王様と呼ばれていた。この時期の作風は、SF(S&F)性・詩的叙情・アクションを含むことが多かった。それらの要素は1971年に放送開始された『仮面ライダー』以降、徐々に特撮作品へと移っていき、執筆する漫画の傾向は青年漫画や学習漫画など幅広いものとなっていった。

1989年平成元年)、漫画には「面白い、おかしい」だけではない多数の表現が可能になったとして、漫画の新しい呼び名「萬画」を提唱し「萬画宣言」を発表した[注釈 2]。以降は自らの職業を「漫画家」ではなく「萬画家」と称した。没後の2007年末には、500巻770作品におよぶ個人全集『石ノ森章太郎萬画大全集』(角川書店)が、一人の著者による最も多い漫画の出版の記録としてギネス・ワールド・レコーズに認定されている[注釈 3]。なお、テレビ原作者(アニメ・実写)としてのクレジットは放映期間のべ六十数年分に及び、野村胡堂長谷川町子らを凌駕して国内最高で、2020年現在も更新し続けている。

妻の小野寺利子は石森グループ会長。息子に俳優の小野寺丈(長男)と石森プロ社長の小野寺章(次男)がいる。脚本家の石森史郎は従兄弟[7]。小説家の今野敏はとこ[8]
経歴
生い立ち登米市中田町石森の石ノ森章太郎生家。一般公開されている。

1938年(昭和13年)1月25日[注釈 4]宮城県登米郡石森町中田町石森を経て現・登米市中田町石森[3][注釈 5]に、父・康太郎、母・カシクの長男として生まれる。姉、弟2人、妹の5人兄弟。下記にもあるように当初は映画監督を志していたが、3歳上の姉である小野寺由恵は生来病弱で外出もままならないため、学校での出来事や外での見聞などを絵に描いて見せていたのが、漫画の原点であったという。

小学生のころは単行本や雑誌を読むのが好きで、あるとき手塚治虫の『新宝島』に出会い衝撃を受け、以後手塚治虫の大ファンとなる[11]

1950年(昭和25年)、中学生になり手塚治虫にファンレターを出したところ返事が戻ってきたことでますます漫画に夢中になり、2年生のとき初めて4コマ漫画を「毎日中学生新聞」に投稿したところ入選、以後投稿マニアとなる。近所の子供を集めて研究会をつくり会誌墨汁一滴』を作成(このときは2号で廃刊)、投稿漫画を募集していた『漫画少年』で批評を担当していた手塚治虫の元に送ったりした[11][12]

1953年(昭和28年)、宮城県佐沼高等学校[注釈 6]に入学。『漫画少年』への投稿仲間を集めて「東日本漫画研究会」を設立、肉筆回覧誌『墨汁一滴』を制作する[11]。第一期の会員には赤塚不二夫横田徳男長谷邦夫横山孝雄高井研一郎徳南晴一郎などがいた[11]。このころ既に漫画業界で「宮城県に天才がいる」と評判になっている。このころのあだ名は「じゃがいも」。高校2年生の春(5月)、手塚治虫より仕事を手伝って欲しいとの電報が届き、『鉄腕アトム』のアシスタントを務める[11][12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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