知識
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この項目では、人間社会一般における知識について説明しています。仏教における知識については「知識 (仏教)」をご覧ください。
知識を人格化した像(ギリシア語: Επιστημη、エピステーメー)。トルコ、エフェソスRobert Reid 画 Knowledge (1896)。アメリカ議会図書館は、しばしば大きな知識の源である。

知識(ちしき、: ?πιστ?μη, epist?m?、: scientia、: connaissance、: Wissen、: knowledge)とは、認識によって得られた成果、あるいは、人間や物事について抱いている考えや、技能のことである。
概要

認識(: cognition)とほぼ同義の語であるが、認識は基本的に哲学用語であり、知識は主に認識によって得られた「成果」を意味するが、認識は成果のみならず、対象を把握するに至る「作用」を含む概念である[1]

なお、英語の knowledge はオックスフォード英語辞典によれば次のように定義されている。
経験または教育を通して人が獲得した専門的技能。ある主題についての理論的または実用的な理解

特定分野または一般に知られていること。事実と情報

事実または状況を経験することで得られた認識または知悉。

知識に関して人類がどのようなことを述べたり考察してきたのかについて解説すると、古くは旧約聖書の創世記のアダムとイブのくだりに「善悪の知識の木」が登場しており、各信仰ごとに知識について様々な考え方がある。知識について哲学的に論じられるようになったのは、古代ギリシアのプラトンが知識を「正当化された真なる信念」としたのが始まりであり、現代にいたるまで様々な哲学的な考察が続けられている。16?17世紀のフランシス・ベーコンは知識獲得の方法について考察を行ったが、彼の考えは近代科学の成立に大きな役割を果たすことになった。(現代の心理学的に言うと)知識獲得には、知覚記憶経験コミュニケーション連想推論といった複雑な認識過程が関係する、ということになる。

なお、今でも、万人が合意できるような“知識についての唯一の定義”などいうものは存在せず、学問領域ごとに異なった理論があり、それらの中には相互に対立するような理論も存在している。
知識と信仰善悪の知識の木の実を食べてしまい楽園から追放されるアダムとイブ

キリスト教においては、旧約聖書創世記に登場するアダムとイブから善悪の知識の木の実を食べてはいけないといいつけられていたにもかかわらず、にそそのかされイブが、それに続いてアダムまでそれを食べてしまい、その結果人間は神から隔てられてしまった、とされている(創世記 3:22)。

カトリシズム聖公会などのキリスト教では、知識を 《 聖霊(Holy Spirit)の7つの贈り物》の1つとしている[2]

イスラム教においても知識(アラビア語: ???‎, ?ilm)は重要である。アッラーフの99の美名の1つに「全知者」 "The All-Knowing" (アラビア語: ??????‎, al-?Al?m) がある[3]クルアーンには「知識は神がもたらす」とあり ( ⇒2:239)、ハディースにも知識の獲得を奨励する言葉がある。「ゆりかごから墓場まで知識を求めよ」とか「正に知識を持つ者は預言者の相続人だ」といった言葉はムハンマドのものと言われている。イスラムの聖職者をウラマーと呼ぶが、これは「知る者」を意味する。

グノーシス主義はそもそも「グノーシス」という言葉が「知識」を意味し、知識を獲得しデミウルゴスの物質世界から脱することを目的としている。セレマにおいては、知識獲得と聖守護天使との会話を人生の目的とする。このような傾向は多くの神秘主義的宗教に見られる。

ヒンドゥー教の聖典には Paroksha Gnyana と Aporoksha Gnyana という2種類の知識が示されている。Paroksha Gnyana (Paroksha-Jnana) とは受け売りの知識を意味する。本から得た知識、噂などである。Aporoksha Gnyana (Aparoksha-Jnana) は、直接的な経験から得た知識であり、自ら発見した知識である[4]
知識と哲学

プラトンの『テアイテトス』では、「知識」が主題的に扱われ、その定義についてソクラテスとテアイテトスが議論している。そこでは、知識とは「感覚」「真なる思いなし」「真なる思いなしに言論を加えたもの」であるとする3つの考えが提示され、検討されるが、これらのいずれも知識ではないと否定されることになる。

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』のなかで、知識を「ソフィア」(: Σοφια)と「フロネシス」(: φρ?νησι?)の2種類に区別している。

その後知識の定義については、認識論という分野で哲学者らが、今にいたるまで議論を続けている。「認識論」も参照

現代英米の分析哲学では、知識の古典的定義としてプラトンの記述を考慮して、以下のものが用いられる。プラトンが『テアイトス』においてソクラテスとテアイトスの対話の形で提示した諸定義などをふまえつつ、古典的な認識論では長らく知識というものを「正当化された真なる信念」と分析した。もう少し分解すると「知識というのは、真であり、なおかつ、信じられている命題部分集合」とも表現される。それをベン図で表すと上記のようになる。

ある認知者Aが「Xである」という知識を持つのは以下の場合、その場合にかぎる。
Aは「Xである」と信じており、かつ、

Aの「Xである」という信念は正当化されており、かつ

「Xである」はである。

これを一言で言えば、「知識とは正当化された真なる信念である」ということになり、「客観的知識」と「主観的信念」とに単純に2分類してしまうような分析が長らく主流であった。

この様な硬直的な分析・決めつけに対しては、1950年代にゲティアが強力な反例を出した(ゲティア問題)。ゲティア問題とは、簡単にいえば、正当化された真なる信念を持っているにもかかわらず、どう考えても知っているとはいえないような状況が想像できる、という問題である。これをうけて、その後の分析系認識論では、ロバート・ノージックサイモン・ブラックバーン、Richard Kirkham[5] といった哲学者が知識の古典的定義に様々な形で手を加えて満足のいく分析を模索してきた。

それとは対照的にウィトゲンシュタインはムーアのパラドックスを発展させ、「彼はそれを信じているが、それは真ではない」とは言えるが「彼はそれを知っているが、それは真ではない」とは言えないと述べた[6]。彼はそれに続けて、それらは個々の精神状態に対応するのではなく、むしろ信念について語る個々の方法だという主張を展開する。ここで異なるのは、話者の精神状態ではなく、話者の従事している活動である。例えば、やかん沸騰していることを「知る」というのは精神が特定の状態になることを意味するのではなく、やかんが沸騰しているという論述に従って何らかの作業を実行することを意味している。ウィトゲンシュタインは「知識」が自然言語の中で使われる方法に目を向けることで、その定義の困難さを回避しようとした。彼は知識を家族的類似の一例と見た。この考え方に従えば、「知識」は関連する特徴を表す概念の集合体として再構築され、定義によって正確に捉えられるものではないということになる[7]
知識と科学フランシス・ベーコン(1561年 - 1626年)は知識獲得の方法の発展に重大な貢献をした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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