知覧特攻平和会館
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知覧特攻平和会館

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施設情報
前身知覧特攻遺品館
専門分野旧陸軍特別攻撃隊隊員の遺品や関係資料を展示し、当時の記録を後世に伝える
事業主体南九州市
管理運営南九州市総務部
開館1985年
所在地897-0302
鹿児島県南九州市知覧町郡17881番地
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯31度21分48.3秒 東経130度26分3.8秒 / 北緯31.363417度 東経130.434389度 / 31.363417; 130.434389座標: 北緯31度21分48.3秒 東経130度26分3.8秒 / 北緯31.363417度 東経130.434389度 / 31.363417; 130.434389
プロジェクト:GLAM
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知覧特攻平和会館(ちらんとっこうへいわかいかん)は、鹿児島県南九州市知覧町郡(旧川辺郡知覧町)にある歴史博物館[1]。第二次世界大戦末期に編成された大日本帝国陸軍航空隊特攻に関する資料を展示している。また、知覧特攻平和会館が建てられている場所とその周辺は、知覧平和公園として整備されている。

この記事では大日本帝国陸軍飛行場である知覧特攻基地(ちらんとっこうきち)についても記述する(詳細は「#特攻基地の歴史」を参照)
歴史
終戦後の特攻隊員の慰霊と特攻平和観音像の建立

沖縄戦日本陸軍陸軍航空隊第6航空軍司令官として特別攻撃を指揮した菅原道大が、終戦後に自決を決心するも、参謀長の川嶋虎之輔少将から「特攻隊の精神顕彰事業を為すは菅原将軍をおいて無し」と説得され、「正に然り、特攻精神の継承、顕彰は余を以って最適任者たること、予之を知る」[2] と自決することを止めて、もっとも特攻を知る者として、特攻隊員の顕彰、慰霊、遺族への弔問を行うことを決心、全国の特攻隊員の遺族巡りをしていた[3]

知覧飛行場は戦後に進駐してきたアメリカ海兵隊に破壊されて跡形も無くなっており、「特攻の母」こと鳥濱トメが、独自で跡地に木切れの慰霊碑を立てて生花や線香を絶やさずに供し慰霊を続けているだけであった[4]。遺族巡りを続けていた菅原は、特攻隊員の慰霊施設の必要性を痛感し、元日本陸軍航空総軍司令官河辺正三軍令部総長及川古志郎ら元軍幹部などと「特攻平和観音奉賛会」を設立[5]法隆寺の夢違観音像にちなみ、胎内に菅原直筆の特攻戦没者の芳名を記した巻物が収められた「特攻平和観音像」を4体建立し[6]、うち1体を、陸軍航空隊の特攻基地であった知覧に祀りたいと知覧町に申し出た[7]。同時に、菅原らは観音像を祀る観音堂建立のための協力も要請し、菅原らは日本全国で寄付金を募った[8]。地元知覧でも、鳥濱が知覧町役場に協力を要請するなど積極的に行動していたが、観音堂建立の動きは戦後間もなくの反軍反戦の風潮のなかで、平和運動団体などから「戦争賛美」と批判されるなど大変な苦労があった[9]。鳥濱ら関係者はその都度「戦争犠牲者慰霊のための観音堂がなぜ悪いか」とはっきり反論している[10]。やがて、鳥濱らの要請を受けて知覧町も工費の一部を負担することとなり、陸軍航空隊知覧飛行場跡地に特攻隊員の精神の顕彰と世界平和の祈念を目的に1955年(昭和30年)9月28日に「特攻平和観音堂」が建立され、観音像は「知覧特攻平和観音像」と命名され観音堂に収められた[11]。「特攻平和観音堂」は、特攻隊員の慰霊施設を永年にわたって望んできた鳥濱や、知覧町立高等女学校(現鹿児島県立薩南工業高等学校)の女学生で特攻隊員の世話をした「なでしこ隊」の元女学生ら知覧町民を喜ばせた[12]

知覧の知名度向上には、作家高木俊朗の著作も大いに貢献している。高木は、自らが批判してきた菅原ら特攻指導者が主導して建立した「特攻平和観音像」に対して否定的であったが、功利打算なく特攻隊員を供養し続ける鳥濱をクローズアップすることで「特攻平和観音像」に意義を見いだそうと考え、自分の著作に鳥濱を何度も登場させた。とくに1964年6月劇場公開された、高木の特攻に関する著作の映画化である『出撃』で鳥濱を「特攻おばさん」として紹介、この映画上映後に高木は知覧を訪れて、鳥濱の旅館に宿泊し、知覧高等女学校の女生徒で編成された勤労奉仕隊「なでしこ隊」の元女学生らから証言を集めるなど取材を行って、この取材に基づき、1964年から1965年にかけて「週刊朝日」で知覧特攻基地についての連載を行い、後にこの連載は『知覧』として書籍化された[13]。高木が知覧町に訪れたときに撮影された、笑顔で会食する高木と元女学生の写真が知覧町の町報に掲載されており、当時の高木に対する知覧町の歓迎の様子がうかがえる[14]

鳥濱は高木の著作に取り上げられたことで、知名度が全国区となっていったが、さらに1972年に、歌謡曲『岸壁の母』を二葉百合子がカヴァーしたことによって起こったリバイバルブームで、「岸壁の母」のモデル端野いせのように銃後の母の物語が注目されるようになり、自分の息子のように特攻隊員と優しく接した鳥濱も銃後の母の1人としてクローズアップされて、「特攻おばさん」から「特攻の母」と呼ばれるようになって、更に知名度が向上していき、全国放送のテレビ番組にも出演して、鳥濱をモデルにした歌謡曲「基地の母」(歌唱:菊池章子)も発売されて、鳥濱と「特攻基地知覧」の名前は全国に知れ渡った[15]
知覧特攻遺品館の設置

1960年代から1970年の知覧町は過疎化が進行し、また知覧茶に代表される主要産業であった茶業も嗜好の変化によって苦境に立たされていた。そこで、知覧町は地域活性の起爆剤として、高木の文筆活動によって向上していた知名度にあやかって、知覧特攻観音付近を観光資源として開発を進めることにした[16]。まずは、知覧基地跡地に整備されていた運動公園に休憩所を新築、その2階を特攻隊員の遺品や遺書を展示する「知覧特攻遺品館」として整備することとし、近隣に特攻隊員の銅像「とこしえに」の建立も計画された[7]。知覧町は菅原ら旧日本軍関係者や、旧日本陸軍航空隊陸軍少年飛行兵戦友会「少飛会」などと連携し全国で寄付を募り、不足分は地方債を発行して調達し、1975年までに完成した[17][18]。「知覧特攻遺品館」には、第213振武隊として知覧飛行場から特攻出撃するも機体の故障で不時着し九死に一生を得た、元特攻隊員で名古屋市役所職員の板津忠正が集めた特攻隊員の遺影や遺品や遺書が展示されることとなり、のちに板津は名古屋市役所を早期退職して知覧の「特攻遺品館」の事務局長に就任し、施設の維持管理とともに、まだ収集できていない陸軍航空隊特攻隊員の遺影や遺品などの収集を行った[19]


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